暴言・極言・迷言
 
   生体/整体/斉体/精体/せいたい/の歩き方
 
  常識を疑え! ちょっと変わった生体のお話
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  蛇足      政治家を志す人のために
                政治を知らない人のための
 
             (泡沫候補が行く)
 
 
 
 
 
 
 
 
 わたしの・こと
 
 
 
 
 ここまで、5章に分けて生体に関連する事柄について書いてきました。ここからは、生体から離れ、自分自身のことについて書いていき
ます。
 
 昭和45年、皆さんには、三島由紀夫の防衛省市ヶ谷駐屯地での乱入、割腹自殺の年と言えば分かりやすいでしょうか。
 同年12月、母の死去に伴い、大学を中退し、福島県石川郡石川町の実家に戻ります。
 当時はすでに、家の新築のための借入。新築に伴い、母が運営していた、あみもの教室の廃業による収入減。父の友人の保証弁償などが
重なり、それらが元となって、多額の負債を抱えていました。
 わたしが、家業を引き継いでも、持つのは、せいぎり、半年。自由気侭に20年間を過させてもらった自分の、亡くなった母への、6ヶ
月間の、せめてもの親孝行と考えました。
 その後の40年近くに渡る悪戦苦闘の幕開けになるとは思いもよりませんでした。
 ある朝目覚めたら、借金だらけの人生です。その後の人生を借金との格闘を抜きにして話し出すことができません。
 銀行とはおかしな所で、お金を必要としている所には、梃子でも貸してはくれません。その代わりに、必要としないところには、頭を下
げてでも貸そうとします。わたしなどは銀行に対して過剰な期待と幻想を抱いています。でも、銀行といえども商売でしかないのですか
ら、それが当然なのかもしれません。
 家業を受け継いだ当時から明日をも知れぬ状態であったにも関わらず、その後、40年近く、曲がりなりにも営業を続けることができた
のも、ひとえにお金の借り方の巧みさゆえでした。
 それが、良かったのか、悪かったのか、わたしには分かりません。ただ、それを、必然として受け止めています。
 現在でも通用するのかどうか、わたしの借入のテクニックは簡単です。
 「◯月◯日までに◯円が必要です。◯日までに貸していただけるかどうか返事をください。◯日までにご返事をいただけない場合は、他
所の銀行をあたります。」
 これだけです。使途などについての説明はいっさいいたしません。
 本当は貸していただけそうな銀行、話しを持ち込めそうな銀行はそこしかありません。でも、そんなことはおくびにも出しません。借り
てあげるよ、と言う態度に終止します。
 「現在の状況は、こうこうで、こんなに困っています。何とか融資をお願いできませんか。」
 平身低頭して懇願すればするほど借入の可能性は遠のきます。
 
 ある知人を通して相談が持ち込まれました。
 銀行に借入依頼をするために、決算書を修正したい、というのです。
 決算書に税務署用と銀行用があってはおかしいのですが、当時は、借入の必要から2種類の決算書を用意する商店、また、2種類用意し
ないまでも、税務署に提出する決算書そのものを偽装する商店がありました。当然、粉飾決算です。粉飾決算をすれば、それに伴い、税金
が発生します。それでも、借入の必要から偽装せざろをえませんでした。
 県の工事を受注する建設、建築屋さんの決算書の総てを閲覧したことがありますが、その全てで赤字決算の会社はありませんでした。赤
字決算を出せば、県の評価ランクが下がり、工事の受注に障害をきたします。粉飾すれば工事の受注は取れても、不必要な経費、つまり、
税金が発生し、会社経営を圧迫します。
 地方経済など、綱渡りのような経営を続けている会社や商店が多く、不測の事態に対応力を持つ会社はごく少数でした。
 当該の会社の場合もご多分に漏れず、あまりにも儲かっている決算書に仮装すれば、借入の必要が存在しない。その場合、設備投資や新
規の事業立ち上げなど、別の使途目的が必要になり、その計画書、見込み、手持ち資金の明細などの提出を求められる。銀行によっては、
その、進捗状況までも、その都度、チェックされる。
 真正な決算書を持ち込めば、支払い能力なし、として、門前払いを食ってしまう可能性がある。借入を引き出すためには、どこを、どの
程度、どう修正を加えればいいか、決算書を見てほしい、という依頼です。
 決算書を拝見させていただいて、
 「小規模ばかりの借入が多いのはなぜですか。」
 と、尋ねました。
 事業規模からして、借入金の総額は少ないのです。全体は少ないにも関わらず、小口の借入金が多いために支払い総額が増大し、経営を
圧迫しています。
 理由は、銀行の手前勝手な貸し付けでした。
 「現在ですと、年末融資として300万円の貸し付け枠があります。借りておかれてはどうですか。」
 身勝手で、無分別な申し出です。それでも、本来は経営者として自己判断しなければなりません。でも、その社長は、(信用されている
からこそ銀行から声を掛けてくれた。信用を無下にもできない。せっかく声を掛けてくれたのだから、来年のお盆のボーナス支給用に借り
ておこうか。)
 さほど必要でもない借入を進められるまま繰り返し、挙げ句、小口の融資、支払いの増大で資金繰りがつかなくなっていました。
 銀行は銀行の存続のために存在します。経営者の身になって事業の継続、発展まで考えてくれるような銀行は存在しません。本来、銀行
とは、取引のある商店をリードする存在であるべきとわたしは考えています。その商店の発展こそが銀行の発展に結びつくはずです。で
も、建前はともかく、そんなこと考えている銀行はありません。少なくとも、わたしはお目に掛かったことがありません。何か事あれば、
手のひらを返すように、自身の保全に狂奔します。抜本的な改革、特に資金繰りさえつけば助けることのできる商店、企業を、いかに多く
見殺しにしてきたことか、そのことを、まず、理解すべきです。銀行とは、上手におつき合いし、利用すべきところであって、依存しては
いけません。
 事業をしていれば大方の人は知っていることですが、銀行からの借入は2種類に分けることができます。設備投資や回転資金などの前向
き資金。それに対して、借入を払うための借り入れを後退資金と言います。この会社が必要としているのは、その、後退資金です。後退資
金が必要になれば、事業なり、資金繰りがうまくいっていないことのなによりの証明です。
 「決算書を拝見させていただくと、月々、安定的に60万円の収入があります。支払い総額は80万円です。月20万円、年間にする
と、240万円が不足します。不足分を資産の売却、社長の給料からの事業者貸し付けとして流用して凌いできました。今回、たとえば、
300万円借入ができたとしても、その支払いは来月から始まります。貸し付け方法、金利、期間によって月々の支払いは変わりますが、
それが、たとえ、月に3万円の支払いと仮定しても、先の不足額240万円プラス36万円。5万円ですと、来年の暮れ、つまり一年後に
は300万円が、さらに、不足します。これから、毎年毎年、延々、それを繰り返しますか。でも、その都度、必要資金は増大し、支払い
額も増加の一途を辿ります。繰り返せるうちはいいでしょう。しかし、早晩、必ず、借り入れも支払いも不可能になります。」
 「どうすればいいですか。」
 「現状は借入すべきではありません。どう、支払うかを考えるべきです。」
 「どう支払えばいいですか。」
 「本来は、借入を一本化して、月々の支払いを身の長けに合わせることです。でも、それは無理でしょう。そんな親切な銀行はありませ
ん。あったとしても、担保の差し出しばかりか、身内以外の保証人を求めてきます。」
 「では、どうすればいいのでしょう。」
 「簡単です。まず、今後、借入に頼らない覚悟を持つことです。その上で、20万支払っていた所には10万円、10万円支払っていた
所には5万円での支払いの交渉をしてください。80万円の支払い額が、40万円になります。利益は60万円、月に20万円、年間で
240万円。来年の暮れには逆に240万円の剰余金が生まれます。景気の変動があっても十分対応が可能な足腰の強い会社に変身しま
す。」
 「そんなことが可能なのでしょうか。」
 「あなたの会社は設備投資が必要ありません。取引先も安定しています。収入の基本は人件費です。やれるかどうか、健全経営に戻すか
どうかは、あなたの覚悟の問題です。」
 わたしは、天辺、支払額の一番多い銀行、もしくは、政府系の金融期間から交渉するように話しました。その方は、恐る恐る、政府系の
金融機関を訪ねます。そこで言われたことは、
 「社長。いい時に間違いに気付きましたね。このままいけば間違いなく潰れます。経営状態が安定している、今だから、立て直しが必要
だし、可能です。わたしどもも応援します。積極的に健全化に取り組んでください。」
 誉められてびっくりした、と連絡がありました。
 その後、どこの支払いも半額のリスケジュールに応じていただけました。現在は、計画がきちんとしていれば、支払いの見直しを受けて
いただく環境は比較的整っています。しかし、その当時はリスケジュールなどということばさえ存在しませんでした。存在はしていたのか
も知れませんが、一般人が知ることばではありません。たとえ、知っていてさえ、それに応じていただけることなど不可能でした。
 ところが、最後に、月々、40万円を支払っていたメーンの銀行がどうしても首を縦に振ってくれません。そして、その銀行こそが、無
駄な貸し付けを繰り返し押しつけた銀行でした。
 「もう一度、その銀行に行ってください。そして、こう言ってください。『わたしは、こちらの銀行をメーンの銀行として大事に思って
きました。これからも、ずーっとおつき合いを重ねたいと思っています。でも、わたしが必死になって立て直しを計ろうとしている時、ご
協力はいただけないのですね。他の支払いについては、すべて、ご同意いただいています。ガソリンスタンドまで、2ヶ月間の繰り延べを
了承してくださっています。』一呼吸を置いて、『ご同意いただけるかどうかはそちらのお考え方です。どうのこうの言うつもりはありま
せん。ただし、これを実行しなければ、当社は早晩行き詰まります。認めようが、認めなかろうが、月々、通帳には20万円づつ間違いな
く入金します。どうするかはそちらの勝手です。よろしくお願いします。』そう言って帰ってきてください。」
 支店長さんが会社まで追い掛けてきます。
 「会社再建の情熱は十分伝わりました。支払額を元利とも半額の20万円で了解します。ただし、ひとつだけ条件があります。当行では
初めてのケースで、支払いの条件変更を受けたことが外に漏れると困ります。他言無用でお願いします。」
 さっそく、電話が鳴ります。
 「わたしの条件変更を認められたら方法を教えてほしいという友人が3人います。銀行が言うように話さないほうがいいでしょうか。」
 「自分の身は自分で守るしかありません。友人どころか、どなたにでも、どんどん、教えて差し上げてください。ただ、小手先の繰り延
べでは意味がありません。全体をどうするのか、そこから見直すよう指導してください。」
 余談になりますが、二度と借入ができなくなってしまうのではないかと相談者は心配していましたが、その後、5年程、安定的な経営を
続けていると、その銀行から、またぞろ、お金を借りてくれとの申し出がありました。当然、言下にお断りしたそうです。借入の必要性が
なくなっていたことは言うまでもありません。
 
 現在はどうなのでしょう。しばらく前までは、パチンコ業界は、在日の朝鮮系の人達の牙城でした。日本人の経営者は参入することがで
きません。
 パチンコ業界は、出玉率を100%還元しても、交換差額、商品仕入れ価格との差額で利益が発生します。還元率80%でも大出血サー
ビスです。通常で60%、釘を絞めれば40%というところでしょうか。現在ではコンピューター制御で釘師なども必要ではないのかもし
れません。むかしむかしはお客さんが1日に3人いれば商売が成り立つと言われた時代さえありました。
 伝聞でしかありません。割り引いてお聞きください。
 パチンコ業界に日本人が参入すると、近隣の4〜5軒の朝鮮系のパチンコ店が手を結びます。日本人経営のお店を囲むように、それぞれ
が、1週間ずつの大出血サービスを繰り返します。つまり、一ヶ月間、近隣のどこかのパチンコ店が出血サービスで集客します。4〜5店
連合対1店の喧嘩です。どうにも対抗できなくなって店を閉めるか、身売りするまで、それが毎日続きます。
 ちょうど日本人の経営のパチンコ店が開業した時、在日韓国人のお宅におじゃましていたことがあります。普段は北鮮系の人達と南鮮系
の人達は決して仲が良いとは言えません。むしろ、端から眺めていると、近親憎悪に近い感情さえ感じます。しかし、共通の敵が現われる
と話しが違ってきます。
 「お互いに頑張りましょう。」
 電話でのやり取りです。わたしは、いたずら心で、
 「あれ、◯◯さんとは仲が悪かったのではなかったっけ。」
 彼は笑顔を返しただけでした。
 在日朝鮮人には二つの大きな潮流があります。ひとつは俗に言う朝鮮総連、正式には在日本朝鮮人総聯合会、主に北朝鮮系の人達が加盟
します。北朝鮮の日本人拉致問題が表面化するまでは、国内での勢力は大きく、韓国籍であっても朝鮮総連に加入している人が多数でした
が、拉致の表面化以降、退会者が多いと聞きます。対応していた銀行が朝銀。それに対して、韓国籍の人達は民団、在日本大韓民国民団。
主に対応する銀行は商銀。
 現在は破たんしてありませんが、朝鮮銀行。その破たんの補填、1兆4千億円を日本政府が、ひいては、国民の税金で、なぜ、穴埋めが
行われなければならなかったのか、どうにもわたしには飲み込めません。問題が別ですので、それはともかくとして、朝鮮系の銀行は現在
も存続していますが、現在は名称からそれと判別できる銀行は皆無です。
 その朝鮮系の銀行と日本の銀行を比較します。
 朝鮮系の銀行は人に投資します。極端な話し、4畳半一間のアパートに暮らしていても、能力ありと認定すれば、多額の資金を貸し付け
ます。日本の銀行は、当然、個人の資質の問題は問うにしても、裏付けとなる担保、さらには、第三者の保証が大きなウエイトを占めま
す。保証と言えば聞こえはいいのですが、そのほとんどは連帯保証。債務について、借入者と共通の責任を負うばかりか、借入者の支払い
能力があるかどうかではなく、保証人に対して先行して直接請求しても構わない制度です。銀行がその権利を行使しているかいないかなの
ではなく、このような出鱈目な保証制度を見直す時期に来ているのではないでしょうか。政府系の金融期間でさえが、その連帯保証を求め
るこの国の保証制度は噴飯ものでしかありません。
 金銭的な苦労を知らない政治家が多くなっている現在、そんなところに着目し、ライフワークとして撤廃のための活動するような政治家
は見あたりませんし、そもそも、そんなことが政治の貧困と捉える政治家は残念ですが存在しません。
 パチンコ店を開業するために、たとえば、1億円が必要だとします。朝鮮系の銀行は1億2千万円用意してくれます。つまり、開店資金
1億円に運転資金も必要でしょう、ということです。さらに、当初、支払額は金利分だけの支払いです。ゆとりができて初めて元金の入金
が始まります。さらに、さらに、親切に、脱税の指南。そこまで言ってしまっては言い過ぎでしょうか、減税、節税の指南までしてくれま
す。その一部が裏金として北朝鮮に渡り北朝鮮を支えています。
 それに対して、日本の銀行は開業資金として1億円を借入しようとすると、
 「手持ち資金はおありですか。」
 と、聞いてくれます。手持ち資金もなく、事業を立ち上げることなどできないでしょう、ということです。それでもなんとか話しが進み
借入することが可能になりました。その場合の借入額は大方7掛け、7千万円です。さあ大変、何とか残り3千万円を調達しなければなり
ません。
 支払いは借入した翌月から元利の支払いが始まります。建物はまだ建築段階です。収入はありません。7千万円の金利を年利3%として
も210万円、月17万5千円。元金の支払いは事業資金の場合、3年、5年、10年、最長でも20年でしょうか、通常は10年です
が、たとえ20年の長期での借入ができたとしても月に換算すると約30万円、合計48万円が、営業を開始していない翌月から必要にな
ります。支払い期間が10年ですと58万円が元金で、合計すると約76万円の支払額です。支払いには、残債方式などもありますが、や
やこしくなるので触れません。
 問題は残りの3千万円です。一本で借入することは不可能です。場合によっては百万円単位での借入になります。その場合、10年スパ
ンでの借入は不可能ですから短期での借入になります。その合計の支払額が、20年間での支払いと仮定した場合の基本となる借入の支払
いとほぼ同じ額、50万円ぐらいが必要になります。現実には、3千万円分の支払い額のほうが大きなウエイトを占めるのが普通です。い
ずれにいたしましても、最小に見積もっても、支払い合計100万円が営業を開始していない段階から返済しなければなりません。
 開店するころにはアップアップの状況です。さらに、そこに、前記の環境が待つのです。わたしに言わせるなら、潰れることを前提にし
た、潰すことを想定した開店でしかありません。
 朝鮮系の銀行の支払いは翌月から利息の支払いが始まったと仮定しても20万円。100万円対20万円、さらに、運転資金まで用意さ
れています。さらに、さらに、前記の5対1の環境が待ち受けています。最初から勝負あり、なのです。
 朝鮮系のパチンコ店の場合、それでも経営がうまくいかない時はどうするか。既存のパチンコ店に営業譲渡するか、新たな経営者に債務
を含めバトンタッチします。それだけです。債務者の名義人が変わるだけです。
 大きな自己資本力をバックにできるならともかく、仕組みとして日本人が参入することはできません。そして、その仕組みそのものが、
北朝鮮を支え続けたのです。
 
 長々と昔のパチンコ業界のことを書いてしまいましたが、朝鮮系であろうと、遠く、アメリカであろうと、借入の条件の最たるものは、
人物評価であり、事業計画です。日本も、ここをこそ見直していかなければ、行き詰まりを招きます。バブルの崩壊、上がり続けると考え
てきた担保となる土地の下落が、なによりも如実に、それを示しています。
 大きい所はより大きく、小さい所は、大きい企業に飲み込まれるか、消えてなくなる運命しか待っていません。残るのは、大手が手を出
さない隙間産業だけ、その隙間産業すらなくなってきているのが現実です。一人勝ちを助長する現行制度、それが、資本主義の正体です。
 その時、地方の銀行は生き残れますか。あなた達を必要としない社会がすぐ側まで来ていますよ。預金者がいくらいても、地方経済が瓦
解し、資金を必要とする経営者が存在しなければ、銀行の経営も成り立つ道理がありません。
 29歳の時、最初の町会議員選挙に立候補しました。結果を先に書けば、見事に落選します。その選挙戦の遊説で銀行の前で行った演説
です。
 「新規の事業を立ち上げるとか、設備投資とかは別として、どこの世界に儲かっているのに金を借りる馬鹿がいますか。赤字だからこそ
借入が必要なのです。でも、それでは銀行はお金は貸してくれない。この商店街の中にも粉飾決算までして事業資金を調達している商店主
が必ずいるはずです。そんなことは銀行も百も承知、だからこそ、担保を要求し、保証人まで求める。銀行も商売です。誰にでも求めに応
じてお金を貸し出せなどと言うつもりはありません。でも、この町の発展こそが銀行にとっての発展でもあります。だとするなら、町の名
において、せめて、この町では、借入の申し込みを受けたら、その諾否ぐらいは、1週間程度で答えを出してくれるような要望なり要請
は、各銀行にしてしかるべきではないでしょうか。願わくは、要望があれば、銀行が各商店の経営コンサルタント的な役回りまで演じてく
れることを期待するのは甘えすぎでしょうか。そんなことだって、やる気にさえなれば、行政だからこそ可能です。お金の上手な配分を考
えることだけが行政ではなく、どうすることが町の発展に繋がるのかを考えることこそ政治です。そんなことに予算は必要ですか。町の発
展のために何が必要か、むしろ、何をしてはいけないか、それが政治です。借入申し込みの答えが一週間で出るなら、たったそれだけのこ
とで助かる人はこの商店街にはいませんか。政治とは何か。誰のための政治か。その原点に立ち返り、もう一度、政治の持つ可能性、着眼
点を変えてみるべきです。」
 びっくりしたのは、支店長を始めとした銀行内のほとんどの行員が、そして、選挙カーで前を流していてさえ顔も見せなかった商店の人
達がぞろぞろ、ぞろぞろ出てきてくれて、演説が終わった後に、大きな拍手をしてくれたことでした。
 選挙については、後ほど、改めて書かせていただきます。
 いずれにいたしましても、このようにして、わたしの社会人としての第一歩が始まります。
 
 
 
 酒小売り組合
 
 
  
 
 社会人として最初に関わったのが、同業者の集まりである酒屋組合でした。わたしの住む町は、かつて1町5ヵ村が合併してできた町
で、その中心になった旧町内の酒店が加盟する任意の団体です。それとは別に税務署の管轄エリア内の酒店が半強制的に加盟させられる税
務署の御用機関としての組合がありました。
 税務署管轄エリアの組合の総会の案内には(当日、税務署からの通達があります。必ず出席するように)と、注意書きが付記されます。
任意であるべき組合が、年間販売リッター数に応じて組合費を徴収されながら、税務署の半管轄下に置かれます。
 酒店には、毎月酒類販売リッタ−数の報告が義務付けられます。そのことを拡大解釈し、任意であるべき組合が、税務署の便宜を計る目
的で、税務署をお招きして方部会と称して帳簿検査まで実施していました。開催することに、当然、法的な裏付けなど存在しません。とこ
ろが、当日、欠席などしようものなら、組合事務所まで呼びつけられて、お小言を頂戴した上、別の地区の方部会の出席を求められます。
組合費で雇われているはずの組合事務員が、税務署の威を借りて組合員を統括します。
 酒店は、当時は許認可制でした。しかも、一代免許と言われていて、面倒な手続き、複雑な要件、正当な開設事由などが加味され、申請
場所と、申請者に対して免許が付与されます。
 わたしの酒店の免許者は祖父でした。祖父は先の大戦に従軍していたのですが、従軍期間が3ヶ月短く、軍人恩給の対称にはなりません
でした。ばかりか、後継者がいて、80歳を超えたお年寄りが、酒業に従事し、酒配達などしているはずもありません。ところが、免許者
が祖父であり、税務署への決算報告は祖父名義でなされるため、年金支給の対象からも除外されます。当初の国民年金は、収入額によって
は年金を受け取ることができませんでした。
 収入額によっては、と、書きました。収入などないのです。銀行融資を引き出すための粉飾決算です。そして、それゆえに年金も付与さ
れませんでした。
 祖父からは、酒店の名義人を変えてくれるよう要請を受けますが、酒店の免許は一代免許です。免許者が死亡した場合にだけ、一旦、免
許を返上し、新ためて新免許の申請をするのです。最初から免許の名義書き換えなどの制度そのものがありませんでした。ただし、株式会
社、有限会社などは、会社法が優先され、社長の交代が認められており、酒業の免許の付与も、株式会社、有限会社など、法人に対しての
免許ですから社長の交代も容易でした。後に、それが悪用され、社長の交代と称する酒店の許認可の権利の転売を容認することになります。
 方部会でのてん末、制度の不備、組合のあり方などを記しても面白いのですが、もう、すでに、そんな時代でもなく、誰にも、何の役に
も立たないと思いますのでそれはスルーします。
 
 当初は、経営が思わしくないのは、わたしの家特有の事情によるものと考えていました。ところが、実情はどうもそうではありません。
当然、わたしの所が、率先して経営状態が悪いことに変わりはないのですが、わたしが先頭を走っているだけで、他の酒屋さんも、遅かれ
早かれ、業態としてわたしに追随することは明らかでした。
 わたしは、元来、人見知りで、自分から誰かに話しかけることなどは苦手です。話しかけられれば、それに対していくらでも応対ができ
るのですが、がたいが大きく、苦虫を噛みつぶしたような顔をしているわたしに、積極的に話しかけてくれるような奇特な人はいません。
東京に上京し、上野駅に着くと私服の警官に呼び止められ、必ず、派出所に連れて行かれるようなわたしに、最初から心を開いて接してく
れるのは、赤ちゃんか犬ぐらいのものです。酒店も、酒店というよりも、接客に向かないことは、当人が一番自覚していました。当然、酒
店は妹に譲って、わたしは外に出るつもりだったのですが、多額の負債がそれを不可能にします。
 どちらかと言えば、偏屈で、意固地で、束縛を嫌うわたしが、酒の組合活動に積極的に参加したのは、酒店を取り巻く環境が、一人、わ
たしの問題ではないことに気づいたからです。
 自分の店を建て直すには、わたしの店、個店の頑張りなどではなく、酒店全体の問題として捉えなければならない。小さな酒店が、狭い
エリアでひしめき合い、足の引っ張り合いを続けるのではなく、力を合わせ、地域間競争に勝利しなければならない。そうでなければ、わ
たしの店など早晩倒産してしまう。それが当時の偽らざる心境でした。
 でも、そんな焦りと、思い込みの強さ、共通認識を持てないもどかしさが、人をして、ただの変人としての扱いに変わるのには、そう時
間はいりませんでした。
 当時の酒店の平均売り上げは、億の売り上げを上げる酒店まで含めての2千万円ちょっと。7割方の酒店が、この売り上げ以下に該当し
ます。酒類の粗利益は18%。仮に2割の粗利益があるとしても、400万円。冷蔵庫などの電気代などを含めた諸経費を200万円と仮
定しても、残額は200万円。現実には、接待交際費、広告費などを含めて300万円以上の経費が必要です。たとえ、それが、200万
円に押さえることができたとしても、残額は200万円です。
 酒店は、配達を含む商売です。1人で営業している所はほとんどありません。大方、最低、夫婦の共同作業です。つまり、ろくな休日も
設けず、朝早くから夜遅くまで働き通した年間の収入が、1人あたりに換算すれば100万円以下にしかなりません。借入金などがあれ
ば、健全経営そのものが成り立ちません。
 酒店の健全経営に必要な年間売上は、年額で、値引き、安売りなどをしない通常販売をしているお店で、7千万円というある調査結果が
ありました。わたしは、愕然とします。たぶん、安売りをせずに年間で7千万円を売り上げることのできる酒店は、全国的にもほとんど存
在しなかったのではないでしょうか。
 それでも、市部ですと、銘柄酒に特化したり、ワインに力を入れるなど、他店との差別化を計り、売り上げ増を計画することが可能で
す。また、村部は、最初から酒だけの売り上げで経営を維持することができません。たばこ、塩、などの専売品を始め、食品、生鮮品など
を含め、ガソリンスタンド、プロパンガスの販売などを兼業し、総売り上げは、むしろ、結構な額を維持していました。兼業をしていない
所は、旦那さんが役場に務めたり、まったくの異業種の経営をしているなど、酒店は、奥さんの副業程度です。
 一番困ったのが町部です。そのほとんどが専業です。
 食品はスーパーと競合し、たばこはお菓子屋さんなどにすでに認可されています。ほとんどの酒店が酒類だけの専業販売で、2千万円前
後の売り上げに集中します。たとえ、プラス要因としてたばこの販売権を持っていてさえ、末期の頃には、そのたばこが足枷になります。
たばこの仕入れは、ほぼ、現金です。さらに、利益が粗利で12%程度、そこから、さらに、たばこの組合費などが徴集されます。経営が
安定していれば問題がないのですが、運転資金が不足すると、たばこを仕入れるために、酒、さらには、酒の関連商品の仕入れを控えるよ
うになります。当然、商品が品薄になり、肝心の本業である酒類の売り上げを落とします。つまり、12%の利益を確保するために、18
%の利益を棒に振ることになるのです。
 他の酒店から相談などをを受けた時、まず、たばこの販売権の放棄をお勧めしたお店が何軒かありました。
 
 わたしは、地元の任意の酒組合に積極的に参加し、
 (地元に一軒だけ残っている造り酒屋を守ること)
 (その酒造メーカーを小売店の力を結集して育てること。売りたい酒ではなく、消費者が買いたい酒に作り替える仕組みを創造するこ
と、つまり、銘柄酒に変身させること)
 (町内の酒店の競争ではなく、地域間競争に立脚点を置くこと)
 を、言い続けました。
 ところが、当時の酒店の経営者のほとんどが、わたしの父親より年令を重ねた人ばかりです。
 こわっぱが、何か寝言か戯言を言っている程度だったのでしょう。振り向いてもらえませんでした。
 それを皮切りに、わたしは、同じ過ちを何度も繰り返して現在に至っています。
 今に至ってようやく理解できたことですが、つまり、何、を、提言したかなのではなくて、誰、が、提言したかなのです。
 たった、酒組合を引っ張るだけの能力も、リーダーシップも、まして、カリスマ性もわたしにはありませんでした。ついてきてくれない
人に問題があったのではなく、一人、わたしの資質にこそ問題がありました。
 これからのエピソードにおいても、その都度、いちいち注釈は入れませんが、わたしの資質の問題が、色濃く反映されます。そのことを
ご承知の上で読み進めてください。
 当時の酒店の取り決めといえば、たとえば、ビールを冷やすにも電気代が掛かってしまう。冷やしたビールを売る時は、お客さんから、
冷やし料として10円いただきましょう、程度の協定です。厳密には、それすら独禁法に触れる行為なのですが、とにかく、背に腹は変え
られない状況が生まれ始めていました。
 でも、現実は違っています。取り決めを作って、他の酒店には守らせ、自分は、それをサービスするのです。まあ、簡単に言えば、マッ
チポンプです。それが、差別化だったのです。厳密に守るところは、いい面の皮、です。
 その姑息さがどうにも我慢できませんでした。
 わたしは、その酒組合に見切りをつけ、商工会青年部の運動に力を注ぐようになっていきます。
 その後、酒組合も世代交代し、わたしと同年代、もしくは、下の年令の人達が大半を占めるようになります。その時もわたしは大きな期
待を持ちました。しかし、残念ですが、世代は変わっても、変わったのは世代だけで、実体は何も変わりません。
 論拠となる拠り所が、自分にとっての目先だけの都合、欲得、打算から一歩も前に出るものではありませんでした。人間ですから、損得
も考えます。打算もあります。当然です。でも、それが非常に利己的、刹那的、非論理的、目前の近視眼的な安易な計算式でしかありませ
ん。
 いづれにいたしましても、旧町内の消費力は、当時から、3〜4軒程度をまかなえる程度のものです。そこに14〜5軒の酒店が犇めい
ていました。転廃業で組合さえ消失した現在の状況が必然としての適正規模なのかもしれません。
 
 
 
 商工会青年部
 
 
 
 
 次に関わったのが商工会の青年部です。
 8月4、5日の夏の縁日、6日の花火大会がメーンの事業でした。
 縁日のわたしの担当はやきそばの屋台。おかげで、すっかりやきそばを作るのが上手になったばかりか、現在でも、昼食は、ほとんど、
やきそばばかりです。
 わたしは、その、花火大会の改革を押し進め、一番に花火大会の中身に着目します。
 おとなりの浅川町の花火大会は、江戸時代から続く伝統と格式を備え、たくさんの集客力を誇っていました。江戸時代には、同町で造ら
れた花火が打ち上げられていましたが、現在はほんの一部の花火が作成されるだけで、打ち上げる花火師は当町と同じ煙火店です。当町の
ほうが予算的には多く支出しているはずなのですが、打ち上げる花火の内容が著しく見劣りします。
 まず、新作の花火は、当町より10日後に行われる浅川町の花火大会でお披露目されます。わたしの町で打ち上げられるのは、それか
ら、遙か、一年後です。尺玉に至っては、警察署の許可が下りてさえ、言を左右して打ち上げてはくれません。さればとて、白河市の花火
大会は市街地に近く、5号玉しか上げることができなかったのですが、スターマインの打ち上げを、しだれ柳と称した花火を、赤一色で統
一するなど、それなりの工夫が施されていました。随分と県内の花火大会に足を運びました。その結果、わたしにしてみれば、当町で打ち
上げられる花火は、本数だけ揃えた、何の特色もない、寄せ集めの屑玉の競演にしか思えませんでした。
 煙火店の親方に噛みつくばかりか、何の改善も図れないと知るや違う煙火店との契約まで模索します。
 書き出せば反省しか出てきません。煙火店の親方にしてみれば、自分の子供と同じ程度の年齢のわたしなどに指摘を受けて気持ちのいい
はずがありません。まして、反論の余地さえ残されてなければなおさらです。さらに、煙火店の交代まで画策されてしまえば、人間の感情
など、逆に、マイナスになってもプラスに作用することはありません。必要だったのは、不備の指摘などではなく、いい花火を打ち上げた
いという思いと、情熱をこそ伝えていかなければなりませんでした。現在においてさえ、わたしが、そんなに変化しているとも思えません
が、当時は、尚更、そこに思い至ることはありませんでした。
 花火誘客のために、昼の事業にも着手します。少年相撲大会などのイベント、花火の絵のポスターコンクール、そのどれもが、大きな成
果を得ることもなくとん挫します。
 そこで学べたことは、イベントは、たとえ、どんな成功を収めても、イベント以上にはなりえない、と、言うこと。つまり、打ち上げ花
火のように一過性のもので、継続的な町起こしには繋がらないということでした。イベントを継続的な町起こしに繋げるためには、さら
に、もうひとつの違った仕組み、工夫が必要です。また、それであっても、イベントは始めたなら、継続していかなければなりません。そ
の中で、さらに、自己満足に陥ることなく、より良いイベント足り得る努力が求められます。
 目的を見失ったイベントが長続きするはずもなく、本体である花火大会さえ、商工会青年部の事業からはずれ、現在では、有志によって
規模を縮小して運営されています。
 現実的には、商工会本体そのものの存続さえ危ぶまれ、郡単位での統合に陥っているのが実状で、青年部の活動どころではないのかも知
れません。わたしにとっては、危機感を持つことももなく惰眠を貪った当然の帰結とも思えますし、それすら、歴史的な必然なのかも知れ
ません。
 
 わたしは、青年部の事業として、農業者とのドッキングも画策します。
 わたしの町は、当時は、農業を中心とする町でした。そして、現在でさえ、農業が中心であるべき町だと考えてもいます。農業の好不況
が商店にも色濃く反映されます。農業の発展こそが、商店の発展にも繋がると考えました。
 当時、キューイフルーツがやたら町中に溢れていました。いただきものといういただきものが、キューイフルーツのオンパレードです。
当初は、次世代を睨んで、新しいフルーツの栽培に着手したものと受け取っていました。ところが、実情はまったく違っています。キュー
イフルーツの栽培法を知る農業指導員が着任し、栽培法を伝授しただけのことでした。そこには、戦略もなければ、市場原理も働いてはい
ません。農業指導員とは、栽培技術の指導者でしかないことを改めて知ることになります。
 作ればいい、と、いう農業から脱皮するには、消費者でもあり、販売を専門とするわたし達がコラボすることで、相乗効果を生めないか
と考えました。農業者が販売が不得手なら、販売のプロであるわたし達が入ることで、応援もでき、それでも前に進まないのであれば、不
得手である販売については、わたし達が担えないかと考えます。
 逆に、農業者には、商店から、商品を購入する消費者として、率直な意見を引き出し、よりよい商店にするための提言者になっていただ
きたい。商業者、農業従事者という立場の違いはあれ、同じ町に住む者として、より、緊密に連携することで石川町の発展を担っていきた
いと考えました。
 とりあえず、農青連と同じテーブルに着くところから始めます。しかし、それは、最初の段階で躓きます。あまりにも年齢が違い過ぎる
のです。商工会の青年部は活動する中心が2〜30代、一方、農青連は、50代。親子の年齢差です。その後、2度ほど会合を持ちました
が、年齢的なハンデを埋めることができず自然消滅していってしまいます。
 
 わたしは、商工会青年部の活動においても、何ら、見るべき成果を上げることができませんでした。電波望遠鏡の誘致運動なども積極的
に推進しましたが、失敗に終わります。内部の意識改革にも取り組みますが、講演会を開催しても聞きっぱなし。事業と呼べるものは、な
ぜか商店街の実体調査。3年前と5年前と、ただ、同じ調査結果、むしろ、悪くさえなっている実体を暴き出しても何も始まりません。問
題は、その実体調査を踏まえて、どう、改革するかが重要なはずなのですが、実体調査だけを繰り返し、悪い現実を突き付けられて、悪化
しているのは自分だけではないことを知り、奇妙な安堵感を得て納得する。そこで終わってしまいます。
 商工会青年部の事業を通して学んだことは、行政との関わり、政治の力でした。
 予算ひとつを取り上げても、政治の理解、行政の後押しがなければ、何も前に進みません。わたしは、商工会青年部の内部からの改革を
なかば諦め、政治色を強めていきます。
 簡単な理屈です。中から変えられないのなら、側面から変えようと考えました。
 群れを好まず、どちらかといえば部屋に籠もっていたいインドア派のわたしが、酒の小売り組合や、商工会青年部の事業に拘ったのには
理由があります。
 わたしの酒小売りという生業が良くなる、せめて、食える状態になるためには、同業者全体が良くならなければ、わたしの店だけが良く
なることなどありえない。だとするなら、わたし自身の酒小売りという業態を維持していくためには、今、何が必要で、何をしなければな
らないのか。それが、酒小売り組合との関わりを持ったバックボーンです。
 でも、それは、他店より早く、業績を悪化させているわたし一人のあせりであり、まだ、比較的、安定経営を続けていた他店の経営者と
の温度差はいかんともし難いものでした。
 それで入会したのが商工会青年部です。でも、そこでも結果は同じでした。
 わたしにとっては、政治からの改革に望みを繋ぐ道しか残されてはいませんでした。客観的に判断すれば、ただのひとりよがり、思い込
みに過ぎないのかも知れません。ただ、わたしにとっては、自店の経営状態が悪化して、たとえ、石川町を去らなければならない運命が待
ち受けていようと、わたしの生まれた石川町を他に誇れる町にしたい。他の人が、希望して町を出ていくならともかく、好むと好まざると
に関わらず、石川町を後にしなければならないような現実があってはならない。それは、たとえ、不可能であったとしても、そこに、思い
を託し、せめて、わたしがこの町に生まれ、この町で生きていたという、その足跡だけでも残したい。
 それが、当時のわたしの偽らざる心境でした。
 その実現の手段を、その後を、たまたま、政治に求めたに過ぎません。
 
 
  最初の選挙
 
 
 
 28歳の時、わたしは、県会議員選挙に出馬しようとします。
 当時、当地方の県議定数は2名で、その2名の県議が牽制しあい、その結果、県道石川〜平田線の整備が遅れ、舗装に至っては、県でも
最後になってしまいます。
 議員定数が改正され、1名区になった最初か、2度目の選挙選だったと思います。
 政治とは、人のためにあるもの、その政治が、むしろ、地区の発展を阻害しかしないのだとするなら、そんな県議は速やかに退場願うべ
き、と考えます。まして、その選挙戦が無競争などということがあるべきではなく、叶わないまでも、批判票だけでも確定したいと思い詰
めます。
 時の町長に諭されます。
 「俺も実力が伴わずに県議選だ、町長戦だと出馬しては落選を繰り返して苦労してきた。おまえは、勝てないと解っている選挙に出て俺
と同じ苦杯を味わうことはない。どうせ出馬するなら、町会議員になって、そこからたたき上がって来い。」
 県道が整備されなかった真の理由を承知していた訳ではなく、巷間流れていた情報でしかありません。まして、たとえそれが事実であっ
たとしても、県議として、福島県をどう変えたいのか。福島をどう位置付け、どう係わっていこうとしているのか。県議として、地元をど
う捉え、どうしようと考えているのか。
 重要なのはそこであり、批判は有権者たる選挙民が投票という形で判断すべきもので、何の指針もなく、反発ばかりの選挙戦を戦おうと
するなど、今、考えれば、お恥ずかしいものでしかありませんでした。
 
 わたしは、当初の、
 (、生まれ、育った町に、そして、骨を埋める町に、自分のできる精一杯の何らかの足跡だけでも残したい。)
 その立脚点に立ち、町議選への出馬を決めます。
 ただ、わたしには、気がかりなことが一点だけありました。それは、現職の議長と支持層がバッテングすることです。わたしの出馬に
よって、その方を落とすようなことだけは絶対避けたい。その危惧を値踏みするために、勝手なひとり相撲で、気持ちの整理がつかないま
ま、出馬表明を遅らせます。
 その方が落選するようなことはないと判断した上で、わたしは、ようやく、出馬に動き出します。選挙選まで3ヶ月を大きく切っている
ころでした。
 当時の町長、議長、そして、わたしの父親の3人は、共に政治志向で、若いころから政治と関わってきました。さらに、新聞社を立ち上
げたり、柔道場を開いたり、行動を共にしてきたごく近しい仲間です。ところが、町長と、議長との間が、些細なことからぎくしゃくし始
めていました。
 わたしにすれば、状況を判断するためにこそ出馬表明が遅れたにも関わらず、
 わたしの出馬が、
 (見せしめとして、議長を落選させるために放たれた刺客)
 と、揶揄される始末です。さらに、悪いことに、その方が多く集票した地区からも新人の出馬が重なり、噂に信憑性を持たせることにな
ります。
 わたしは町長に質問します。
 「わたしはただの刺客ですか。」
 町長は答えます。
 「無理にお前を出馬させようとしたかどうかは、お前が一番よく知っているだろう。◯◯さんにしても出馬するとあいさつに来てくれ
た。その人に向かって、出ろ、だの、出るな、だのと言えるはずがない。頑張ってください、と言うのが当たり前。裏で糸をひくようなこ
とは断じてしていない。」
 悪いことには悪いことが続くもので、地元の新聞社が、(関口出馬の模様)と記事にします。
 わたしとすれば、まず、柔道の仲間に話し、その夜に、隣組の人にご挨拶をさせていただく手順でした。それでなくとも出馬表明が遅れ
ていたのですが、柔道の仲間が集まる日まで、さらにわざわざ、数日、時を遅らせます。そこに、寝耳に水の報道です。
 柔道界は、講道館を頂点として各県に支部があります。さらに、各地区ごとに、枝分かれした柔道会が組織されています。当地区の柔道
会の会長が町長でした。柔道会は比較的年齢の高い方が多く、わたし達若手には敷居の高い団体です。そこで、現役に近い年齢の人達で構
成するカブ組織として、若手で任意の親睦会を結成していました。当時は、わたしがその会長です。
 新聞記事は俗に言う観測記事です。決定事項を伝えていたのではありませんし、当然出馬表明などはしていません。でも、彼達にそんな
理屈は通用しません。
 一部の人達が動き出します。
 (一番最初に知るべきはわれわれだろう。それが、新聞に出るまで誰も相談すら受けていないのはおかしい。)
 (せっかく仲良くやってきたのに、このままでは会が潰れる。思い止まるよう説得すべき。)
 一部の人には知らせて、一部の人にはまったく知らせていないなどということで揉めぬよう、細心の注意を払って、まったく情報を秘匿
していました。
 それもまた裏目に出ます。他の人は知らなくとも、何かあれば、当然、自分だけは相談されると思っていた、より、近い関係の人の反発
が大きいことがわたしにとっては大きな痛手でした。
 会合それ自体も惨憺たるものです。
 でも、それがわたしの評価であり、実力だったのでしょう。また、それこそが、独断専行するわたしの悪い癖でもあります。
 仲間が選挙の中核をなしてくれ、選挙戦をリードしてくれるものと勝手に期待していたわたしが浅はかだったと言わざろをえません。
 それでも動きだした舟を戻すことはありませんでした。
 
 わたしにとって、選挙には、誰にも話せない、もうひとつの思い入れがありました。
 元来、わたしは、思い込みやひとりよがりの強い人間です。誰に言うでも、相談するでもなく、密かに秘めた思いを押し進めます。
 端的に言うなら、わたしにとっては父親の代理戦争なのです。
 町長、議長、うちの親父の3人は、それこそ最初から負け戦を重ねた戦友です。ひとり親父だけが取り残され、諸般の事情から、議員に
なるどころか、どんな選挙にも出馬することすら叶いませんでした。
 そんな親父に対するわたしなりの無言の親孝行です。
 何度も書きますが、わたしはこだわりの強い人間です。選挙ひとつとっても、自分のしたい選挙戦があります。ですから、その後の選挙
選は、自分の理想に一歩でも二歩でも近づくための選挙選でした。でも、最初の選挙は、当初から自分の中で決めていました。
 (自分の理想とする選挙は二度目から、今回は親父の言うがままの選挙にしよう。これは、親父の果たせなかった夢のための選挙だか
ら・・・。)
 わたしのポスターには、29歳、若さ、が強調されます。
 選挙は誕生日を過ぎ29歳になっていたのですが、わたしは、若さを強調することが本当は嫌でした。
 (若ければいいというものでもなかろう。町会議員ぐらいになることが名誉だと思うような20代が議員になって何の役にたつだろう。
たとえ、それが、70代であろうが80代であろうが、町を変革しようとする情熱と気概を持っているなら、年齢は関係ないはず。町民の
代議員が町会議員であるなら、民意をくみ取るには、若手も必要。お年寄りも必要。ご婦人も必要。単身者も既婚者も必要。商業者も、農
業者も、勤めている人も必要。バランスよく選ばれた人達の知恵を持ち寄って、未来を創造することこそが、求められる議会のあり方。)
 そのように考えるわたしにとって、若さだけを強調するポスターは受け入れ難いものです。
 それでも、親父の代理戦争と心に決めたわたしは、唯々諾々、何も言いませんでした。
 わたしが自由裁量が可能だと考えていたのは、街頭演説のみ。その一点に絞って、選挙戦を進めました。
 それこそ、たった5日間の選挙を、声が潰れるまで蛮声を張り上げます。
 選挙の当選ラインは、上位の集票にもよりますが、500票強。
 わたしがいただいた票は当選ラインの半分の250票。文句なしの落選でした。  
 でも、不思議と落胆はありません。
 その後の選挙でもそうだったのですが、当選した時は、むしろ、責任の重さという緊張感で、喜びという感情が沸き上がったことがあり
ません。ところが、落選した時は、悲しいとか、悔しい、とか以前に、ほっとした気持ちがあるだけです。
 最初の落選の時もそうでした。当選に必要な票の半分しかいただけなかったにも関わらず、
 (よくもわたしのような者に、250人もの人が、名前を書いてくれたな。)
 なんとも形容し難いのですが、感謝の気持ちがこみ上げてさえきたのです。
 さらに、親父に対する親孝行を成し遂げたという充足感、爽快感さえ感じていました。
 選挙期間中、言われ続けたことばがあります。
 「関口は、それでなくとも生意気なのに、当選したら、もっと生意気になってしまう。」
 期間中、わたしは、当選したら、よっぽど注意して、言動を慎み、頭を下げ続けなければならないのだろうな、と、憂鬱でした。自分で
は、必要以上にへりくだっているつもりでも、それでも、尚、生意気になったと言われるのだろうな、と、想像していました。
 落選の報が入った時、一番最初に思ったことは、(ああ、これで、また、生意気を言って歩ける)でした。
 
 
 
 2度目の立候補
 
 
 
 再挑戦には、その後、8年の歳月が必要でした。37歳です。
 わたしにとって、ようやく、自分が理想とする選挙選を進めるチャンスが巡ってきました。
 しかし、それも程なく頓挫します。
 選挙はわたしひとりでは動きません。応援してくださる方との協同作業です。その、応援してくださる方との常識とのギャップは顕著
で、こんどは、その全てを応援者の常識を丸飲みにするしかありませんでした。
 たった一点、事前に発注したポスターだけが、ある意味わたしの意志表示でした。
 現在でも街頭演説などを聞くと、道路の整備や工場誘致など、具体的な政策を満遍なく羅列する候補者がいます。わたしは、その度に、
それ自体が政治不信のとば口になっているように思えるのです。
 真に、思い入れを持っての発言であるなら理解します。ところが、大方は、選挙用の公約でしかありません。違う側面を突かれるだけで
腰砕けになります。威勢のいい発言を繰り返しても、覚悟も信念もありませんから、目立たないように、微妙に発言を修正していきます。
それが、現在の政治の低たらくの原因です。
 町会議員、県会議員に執行権はありません。議員の役割とは、執行権者が出した法案に対して、諾否をしていくことが主な仕事です。自
分の思いを実現するために、働きかけをすることは可能です。でも、たとえそれが具現化し、実現したと仮定しても、実現させたのは、執
行権を持つ、執行者であり、執行部です。議員では絶対にあり得ないのです。
 町をこう変えたいという思い、商業についての、農業についての、工業についての、教育についての、総枠としての考え方は大事です。
そして、その思いに添って、出された法案について審議します。しかし、それ以上の権能はありません。
 演説で、その場所の道路の整備だとか、支持団体の前では補助金の増額とか、工場誘致など、向き向きの公約をしている候補者を見かけ
ます。
 「あなたは議員のする仕事を本当に理解していますか。あなたは、執行権と議決権の区別ができますか。」
 思わず、そう、尋ねたくなってしまいます。
 わたしは、町をこう変えたいという思い、そして、それを踏まえて、農業について、商工業について、教育についての基本的な考えを羅
列した手書きの文章をそのままポスターにします。当然、自身の写真なども入っていません。
 わたしにとっては、票ほしさに平気で嘘をつく候補者への反発でもありました。嘘であることの見識すら持てない候補者へのアピールで
もありました。
 当人にすれば、至極、満足のいくポスターです。印刷代も3万円しかかかっていません。
 ところが、それすら、極めて酷評の対象でしかありませんでした。
 
 わたしは人のために頭を下げることを何とも思いません。でも、自分のために頭を下げたことはありません。いいえ、それは嘘で、こと
選挙になると電信柱にも頭を下げます。
 選挙中に、わたしは、ある、有力者に疑問を口にしました。
 「わたしには、地盤、看板、カバン、頼りにする親戚すらありません。それに較べて、あなたには、政治に対する見識も、たくさんの親
族も、立候補すべき用件は全て揃っています。なぜ、立候補しないのですか。」
 「選挙が自分ひとりでできるなら遠の昔に立候補している。他の人を巻き込み、他人にも、家族にも、迷惑をかけてまで立候補できるほ
ど俺は厚かましくない。」
 言下にそう断罪されてしまいます。
 わたしは、現在に至っても、その命題に明確に答えることができません。答えることはできませんが、わたしにとっての選挙とは、出来
得るだけ、自分ひとりでする選挙に近付く場所ではありました。
 ただし、そんなことでは、選挙にすらならないことも、また、紛れもない事実です。
 選挙戦の最終日、最後のあいさつで、そのエピソードを紹介し、
 「選挙期間中、ずっと、そのことを考えてきました。そして、今、思うのです。だからこそ、迷惑をかけた恩返しとして、4年間、必死
になって、町の発展のために、町民のために、町民が必要とする政治から逸脱することがないよう、議員活動をさせてほしい。」
 町の発展とは何でしょう。議論の分かれるところだと思います。でも、ここでは、その問題は取りあえず置くことにします。
 (わたしはこれこれしかじかの考えを持っています。同調していただけるならわたしに投票していただきたい。)
 わたしは、それが選挙だと思っています。
 しかし、理想と現実は、対極にあると思えるほど、いかに遠いものか。むしろ、そんなところで足踏みしているようでは、立候補する資
格要件すら満たしてはいないのかも知れません。
 でも、わたしは、人に何と言われようが、理屈通りの人間でありたいと思っています。いままでもそうしてきました。これからもそう
していきます。
 たとえどんな選挙であれ、立候補できる資格とは何か。
 何になりたいか、ではなく、何をしたいか、を明確に持っていること、それ一点です。
 議員を選ぶ基準は、真の情熱です。それが、国民のためによかれと判断するなら、何を置いても突き進む勇気であり、蛮勇です。時流に
流され、時、所、を、選び、あい矛盾することを平気で宣う議員など必要ありません。
 下げる頭は、町、大きく言うなら、国のためにであって、自分のためにではありません。自分のために下げる頭だから禄な政治しかでき
ません。情熱も、思い入れもなく、自分にとって都合のいい解釈、判断基準すら自分にとっての損得に傾きます。
 
 二度目の挑戦で、わたしは、かろうじて当選することができました。
 
 
 
 
町会議員として
 
 
 
 議員としての活動を始めるにあたって、自分に定めたことは、
 (大いなる素人でいよう)
 と、いうことです。
 (あれ?)
 (どうして?)
 (なぜ?)
 国民が持つ素朴な疑問こそが正鵠を得ています。
 どんな団体であれ、人が集う組織には、その組織でしか通用しない常識からの乖離が見られます。宗教団体に顕著に現れるのですが、そ
れを洗脳と呼びます。ただ、政府の世論操作が行われても、マスコミによるミスリードがあっても、総枠としての国民の常識とは案外的確
なのです。ただ、その国民ですら、ミクロの問題で自分が関係すると、とたんに、自分にとっての都合、自分にとっての損得を優先しま
す。俗に言う、総論賛成、各論反対、です。
 法律を知らなければ、議員になれないのだとするなら、何も、それぞれの職業を持った人が議員になる必然も存在しないし、弁護士でも
揃えておけばよい。もっと言うなら、素人が参加することこそが民主主義だと考えます。
 旧聞になりますが、福岡県の久山町。町に流れる川をせき止めて、子供のプールの代用にしようとしました。ところが、河川法で、川を
せき止めることができません。その時、当時の久山町町長は、
 「川をせき止めて、自然の中で、子供を育むことが、なぜ、いけない。自分の子供が泳ぐ川にゴミや洗剤は流せない。川はさらにきれい
になる。プールを作る予算も必要がない。ひとつの行為が、二重にも三重にも効果がある。それが規制の対称になるのだとするなら、それ
は、法律のほうが間違っている。法律を早急に改正すべし。」
 結果、河川をせき止めることを強行します。明確な法律違反です。横車でもあります。でも、それこそが政治です。法律を知る人には到
底まねができません。
 こんなことを言うと、すぐに、法律などに従わなくてもいいなど暴言だという声が聞こえてきます。そんなことを言っているのではあり
ません。政治とは、国家、国民のために機能すべきものであって、そのための法律でなければならないはずなのです。その原点を外し、見
失ってしまった議論の何と多いことか。
 わたしは、自分自身の立ち位置だけは見失わないようにする基準として、
 (国家、国民のために)
 が、大前提であり、できない。やれない。その、言い訳としての法律論など不必要と考えます。
 そして、(やる)(できる)その整合性を整えることこそが、プロの公僕としての公務員の仕事です。
 わたしは、聞き分けの良い議員だけにはならないでおこう、と、決めました。
 
 ある役場職員が、わたしをして、(提言型議員)の冠を被せてくれます。言い得て妙です。
 町会議員に与えられた仕事の第一は、執行部が提出した議題の諾否です。普通であれば、提出される議案に、議論が割れたり、反対すべ
き案件は、そう存在するものではありません。
 議員のもうひとつの権能が、議会での一般質問です。質問は、当然ですが、町政全般、多岐に渡ります。ただし、それは、質問であって
お願いの場ではありません。故に、勢い、質問に名を借りた提言になります。
 わたしは、その都度、個別の案件に対して質問はしていても、底辺に流れる本意はいつでも一緒でした。
 (町政とは何か)という語りかけであり、(行政とは何か)という問いかけです。
 さらに、(町政は誰のためのもので)そのためには、今、(何をなさなければいけないのか)それのみを繰り返したつもりです。
 ですから、提言型議員とは、我が意を得たりなのです。
 一方で、家業のほうは、年々、窮屈になり苦しさが増すばかり、一般質問に立つ度に、これが最後の質問になってしまうのではないか、
という恐れと、そうして、せっぱつまった危機感も相まって、思いが伝わらないもどかしさに、あせりだけが募っていきます。
 この頃から、
 (町を変えるには執行権を持たなければ)
 との思いが芽生え始めました。
 今だから言いますが、道路の補修、舗装、側溝の蓋、改善、ガードレール、カーブミラー、住宅困窮者の町営住宅への入居、その程度の
ことは、100%実現させることができました。
 何も、強面で脅かし、実現させたのではありません。かみ砕いて、状況を説明し、必要性に納得していただいた上で、前に進めることが
可能でした。
 そして、それが、議員の仕事だとも思っていません。当然、そのような質問をしたことは一度たりともありません。いままでに、その話し
しをしたこともありません。増して自慢気に書いたのではありません。
 それは、むしろ、逆で、議員の力が介在しなければ、たったそれだけのことが前進できないことのほうがおかしいのです。緊急性、必要
性を勘案し、柔軟性を持ちながらも、優先順位を精査し、粛々と実行していけばいいだけのことです。
 余談になりますが、後の選挙で、ある候補の街頭演説と遭遇します。その地区の区長さんの応援演説だと思ったのですが、すれ違いなが
ら、聞くともなしに聞き流していました。
 「この前の道路を見ていただきたい。ここは、区のほうから重点的なお願いとして、もう、十数年に渡って、舗装の陳情を重ねてきまし
た。ところが、力及ばず、なかなか、実現することができませんでした。この頃では、とにかく、一部区間の舗装だけでも着手してほし
い、と要望を重ねていました。でも、今回、○○候補のご尽力で、全面舗装をしていただくことができました。」
 わたしは、思わず吹き出してしまいます。マイクを通して、外にも漏れていたかも知れません。
 そこは、わたしが申し入れ、担当者と相談して進めた舗装です。彼の介在など断じてありません。でも、正直、それぐらい厚かましくな
ければ選挙は戦えないのでしょう。
 
 
 
 
 
委員会
 
 
 
 議会に提出された、予算案や決算の承認、その他の議案は、それぞれ、所管の委員会で審議し、結果が本会議に報告され、諾否が決定さ
れます。
 委員会の審議は、当然、議題に上がっていない案件についての審議はできませんが、それでも、比較的、自由な発言が許されるのが恒例
です。
 折に触れ、取り上げたのが、機構改革です。
 当時、議会は議員定数20名。総務、産業、建設、文教厚生の4委員会に別れ、1委員会、5名が充当されていました。
 委員会での自由な発言を担保する目的で、議長は、とりあえず、どこかの委員会に所属はしていても、委員会には出席しないことを慣例
とする議会もあります。そうではなくとも、辞任、死亡、病欠などが出ただけで、構成メンバーが4名の委員会ができます。4名のうち1
名は委員長。委員長は、可否同数の場合のみ採択に参加しますので、実質、審議するのは3名になってしまいます。
 委員会の審議に基づき議長は、
 「委員会の審議は全員異議無く可決であります。委員会報告の通り賛成にご異議ございませんか。」
 と議会本会議に計ります。
 委員会で議論が割れ、2対1で可決した場合は、
 「委員会の決定は、賛成多数(反対多数)で可決(否決)であります。委員会報告の通り賛成(反対)にご異議ございませんか。」
 と、計られます。
 その場合、議員には、(少数意見の留保)という制度が与えられています。
 少数意見の留保とは、議長に、委員会の審議結果を報告していただく時、上記のフレーズの前に、(かくかくしかじかで反対(賛成)意
見がありました。)と明示していただく制度です。
 ただし、少数意見の留保を活用するには、もう一名、計、二名の同意が必要です。
 つまり、三名の審議委員では、二名さえいれば、可決されるのですから、意見が割れても、賛成であれ、反対であれ、金輪際、議員の権
能であるべき少数意見の留保は、どう、あがいても、活用することができません。
 そこで、委員会を3委員会にし、構成する委員数を増やすべきと提案します。今日では、議員定数も削減され、必然的に3委員会になっ
ていますが、実は、わたしの目的は、もうひとつ別なところにありました。
 現在でもそうなのですが、行政の組織は、担当の課によって運営されます。それを、3つの委員会に対応する部を創設し、その下に課を
配置する部課制にすべきと考えていたのです。
 機構をどうするかは、当然、執行権者の考えであり、一議員が、口を挟む筋の問題ではないのですが、町を有機的に動かすには、機構か
ら変えていかなければなりません。
 民主党が行財政改革を打ち出し政権を取りました。一番最初に手を付けるべきは機構の改革です。機構そのものに手を入れることができな
かったことが、迷走の原因です。
 職員からは、現在の役場職員の人的規模から、不適当、という答えが返ってきても、あきらめることなく蒸し返します。
 たとえば、税務課があります。申告の時期は、猫の手も借りたいほどの忙しさです。でも、それ以外の時期になると、さほどの仕事はな
いのです。そこに、総務部を上に置き、税務課とすれば、忙しい時期は、総務部から人員を回し、その他の時期には、必要最低限を残し、
総務部の他の課のお手伝いをすることも可能になります。部の中で員数を付け合うのです。独立した担当課である限りそれは不可能です。
 また、町長、助役、教育長、担当3部長の6役で執行部会議を定例化し、問題、課題、現状、将来像を共有することが大事だと考えてい
ました。
 20人近い課長では、議会でもなければ、全員が顔を揃えることすら容易ではありません。まして、共通認識など、願うべくもありませ
ん。
 助役は、今日では副町長と呼称されます。現在は廃止されましたが、収入役というポストもありました。収入役については、収入役を置
かない条例を設定し、必要なしとすべきと考えていました。
 町長にお願いしたことがあります。
 「町の職員は、町の宝です。町の一番優秀な人材が集まっています。その職員が町民から『遅れず、休まず、働かず』と、馬鹿にされる
ようでは宝の持ち腐れです。職員が自らが望んで、町民のために汗を流そうとするかどうかは、為政者の力量です。」
 小生意気な理屈を長は黙って聞いてくれます。
 「新採用の職員や比較的若い職員を町長室に呼び込んだらどうでしょう。質問をするのです。担当課の問題は何で、どう、解決していく
ことが求められるのか。そして、配属担当課で実現したいことは何か。最初は、しどろもどろ、だと思います。でも、それを繰り返すこと
で、問題意識を持ち、町造りに参画している喜びが生まれます。将来、必ず大きく成長してくれると確信します。なによりも即戦力として
さえ期待できるはずです。」
 町長は既に体調を崩し始めていて、残念ですが、それが実現することはありませんでした。
 でも、ここまでが、わたしにとっての機構改革でした。
 
 委員会で、次年度の予算案の度に取り上げたのが、予算案の組み方、さらには、(等)の扱い方についてです。
 予算案、決算書案のト書きに、たとえば、(文書費等25万円)と説明されています。ところが内容を伺っていくと、文書費は1万円
で、実際は議論の対象になるような用途の24万円が紛れ込ませてあります。
 金額の多いものこそ、説明欄に記入されるべきで、おかしいと感じたものについては、その都度、説明を求めます。それを繰り返すこと
が清新な予算、決算に成り得ると信じ、嫌がられながらも続けます。
 嫌がられたといえば、予算案の審議も同じです。またか、という顔をされながら、予算案審議の度に同じことを話しました。
 予算案とは、今年一年、町をどうするかを予算を通して町民に提示するものです。予算案で、年間の予算の目算を立て、どうしても必要
なら補正予算を組むことも致し方がないとしても、補正予算ありき、補正予算が前提の当初予算を組むことはおかしい、と自説を開陳しま
す。
 たとえば、前年度の決算書で見ると、委員会で担当する課の光熱費が12万円だったと仮定します。ところが、予算案には、2万円しか
計上されていません。そのように、数字の交通整理をすることで目玉事業を町民に向けていかに見せつけることができるかが、腕の良い行
政マンの資質だと考えられています。しかし、でも、そんなことは、内部でだけ通用する理屈であり、補正予算などなくとも、年間予算が
確定し、そのまま決算されることこそが最良の予算書のはずです。
 たった1年の予算の見通しすらままならない執行部に、3年先、5年先、10年先、将来の夢など託すことなどできません。
 「国、県からの地方交付税が確定せず、年間を見通した予算を計上することは難しい。」
 解らない訳ではないのです。でも、そう言い続けない限り、何でもかんでも、補正予算でみればいい、という、見せかけだけで中身のな
い提灯予算に陥ってしまうのではないかと危惧しました。
 
 矛先は、同じ委員会を構成する議員にも向けられます。
 「○○さん。請願の紹介議員になっていますが・・・。」
 「地元からの要望なので、よろしくお願いします。」
 「○○さんは、本当に、この請願が実現すると思っていますか。」
 「・・・・・。」
 「10年先でも実現できないことは、○○さんが一番ご承知ですよね。それを承知で紹介議員になるなんておかしくありませんか。たと
えば、この請願を可決したとしましょう。でも、実現不可能ですよね。」
 「・・・・・。」
 「わたしは骨をおって可決させた。でも、実行するかどうかは執行部の問題。できないのは、執行部に能力がないから。それって、ただ
の責任逃れですよね。結果として、政治不信を招きませんか。」
 「そこはそれ、問題をそんなに複雑にしないで・・・。」
 「○○さんが政治生命を賭してこの案件に向き合うとおっしゃるのであればわたしからは何も言えません。でも、あまりにも、陳情、請
願の扱いが杜撰過ぎやしないでしょうか。採択するのであれば、採択した責任において、議会が、その後をフォローすべきです。進捗率を
精査し、動いていない案件については働きかけ、実現率まで町民の前に明らかにすべきです。その覚悟もなく、採択さえしておけば良い、
とする考えにはどうしても賛同できません。」
 「関口君、良く解った。なんとかよろしく頼む。」
 陳情、請願の行方は、残念ですが、その後、提出されるごとに同じ論陣を重ね、議会としての対応、慎重な採択を求めましたが、扱いに
変化を生むことはありませんでした。
 理屈っぽいですよね。こんなわたしを側に置いておきたくはありませんよね。わたしは、あまり、群れることを好みません。身びいきも
なく、変だと思えば誰にでも突っかかります。さらに、ひとり、正論をはいているつもりになっている。いやですよね。わたし自身もそん
な自分がいやでたまりませんでした。でも、わたしはそんなわたしを許しました。仕方がないのです。これがわたしですから・・・。
 陳情、請願の違いは、どちらも、議会の諾否を得ることにおいては同じですが、地方議会では、陳情は議決を要する要望であり、請願
も、議決を要する要望には違いないのですが、紹介する議員がいるかどうかの違いだと覚えていただければ理解しやすいのではないでしょ
うか。それとは別に、要望書も議会に提出されます。要望書は単なる要望ですから、議会の議決を経ず、そのような要望があることを議会
で周知するに止まります。
  
 わたしにとっては、議会の大きな変革だったのですが、それは委員会での議論から始まりました。
 議会開会の冒頭、町長にとっての初議会や、年初の議会では、町長の所信表明、また、通常議会であれば、現状説明や、提出議案の説明
が行われます。
 通常議会は3、6、9、12月の年4回開かれ、町長のそれが行われるのは、当町の場合、議会開催日初日、冒頭の木曜日です。ところ
が、一般質問の締めきりは、それに先立つ、同じ週の月曜日。議案の提案理由の説明についてはいいとしても、議案を伴わない現況説明
や、町長の所信表明についての質疑は、次の議会を待ち、改めて予告をしなければ質問することすらできません。つまり、次の議会では、
時期を逸してしまうことすらあるのです。
 何人かの議員が賛同してくれて、一般質問の締めきりを金曜日に変更していただくことにしました。
 当然、答弁書の作成時間などの関係から、議会開催日程は長くなります。現実、出席日数は同じなのですが、一部議員から不満が漏れ聞
こえます。
 そこで、一般質問の申し出は、従前通り月曜日とし、町長の所信表明、議案を伴わない現況の説明等に限って一般質問とは別に、20
分、再質問1回までの時間枠を設けていただきました。
 わたしにとって、そして、わたしの中では、町への最大の功労であったと、密かに自負しています。
 ところが、わたしが議会を離れ、数年でいとも簡単に廃止されます。たとえ、末端の政治家であれ、議会人が、自らの手で、自らの言論
を封鎖するような行為をするとは思いもよりませんでした。
 利用しているかどうかが問題ではないのです。利用できるようになっているかどうかが問題なのです。
 他町の議員が当町の視察に訪れた時、決まって、その制度の説明を求められたそうです。職員にとっては、議員の発言は、なければない
にこしたことはありません。当然、職員からのレクチャーはありません。説明を求められる度に、解答に窮していたと言います。
 説明もできない、プラス、利用もしていない、イコール、廃止、ということのようです。
 
 わたしは、委員会であれ、一般質問であれ、金額の配分についての質問をほとんどしたことがありません。
 金額をいじる以前の問題として、(行政とは何か)(行政は誰のために存在するのか)(そのためには、何が求められているのか)常に
そこにフィードバックすることこそが大切だと力説したつもりです。
 議会を少し知ると、投機的経費がどうの、消費的経費がどうの、と、分かったような知ったかぶりを仕勝ちです。でも、それって、単な
る足し算、引き算であり、やれない、できない、言い訳でしかありません。
 説明を少し加えますと、黙っていても必要な人件費、維持管理費など固定的な経費を消費的経費と呼び、それに対して、投資的経費と
は、町の裁量で使える金額を指します。現実的には、継続事業、ひも付き事業もそれに含まれ、本当に町独自で使用できる予算は限られた
ものになりますが、そこに、重要な論点はありません。
 町を変えようとするには、当然裏付けとなる予算は必要だとしても、そのような、単なる、計算式ではなく、それ以前、町としての立脚
点、展望が、より、重要です。お金がなくとも、変改できることは少なくはありません。
 
 
 
 
 現職町長の急死
 
 
 
 
 わたしにとって、町議としての一期目、当時の町長は、三期目を迎え、来年度には改選期を控えて、健康状態にも問題を抱え、その去就
が注目されていました。
 8月に町長に呼び出されます。
 「4期目の出馬はない。しかし、不出馬を表明すれば、町政に停滞を来す。最後まで表明は行わず、引っ張って行きたいと思う。ただ
し、次期町長について、どんな動きを加速してくれてもいい。自由に動いてほしい。」
 町長は、その後、入院します。9月の議会は、病院を一時退院して出席したと記憶しています。
 議会でのちぐはぐなやりとりから、病状が悪化しているのは、誰の目にも明らかでした。初発は、無理な減量からの発症です。
 町長がわたしに委ねたのは、助役を後継者として動き出してほしいということだったのだと思います。しかし、わたしは、町長の覚悟を
誰にも話すことはしませんでした。
 わたしにとって、押すべき候補がいません。それよりなにより、世間の評価は別として、わたしが、と、いう思いがあったのも事実で
す。
 話しは少し前後しますが、当時の助役、現在で言う副町長は、町議会の議長をしていた方でした。町長は、その方を後継者として考えて
いたのでしょう。彼を助役に指名することが、後継者としての、お墨付き、を与えることになると考えたようです。
 わたしは、まだ、議長であった彼に申し上げました。
 「この人事を受ければ、町長としての目はなくなりますよ。まず、町議として選出してくれた町民を裏切ることになります。次に、議長
として選任した議会を裏切ることになります。」
 何日かして議長から電話があります。
 「関口。何とかしてくれ。止めることができるのは、もう、お前しかいない。」
 町長の家におじゃまします。
 「町長。議長を後継指名したおつもりでしょうが、この案件を強行すれば、議長を潰すことになります。」
 「助役の適任は他にいるか。」
 「○○さんではどうでしょう。」
 「そうか。それしかないか。」
 実は、○○さんの前に、別の方の名前を上げています。でも、現在もご健在であり、エピソードを書いてしまうと、人物の特定が可能な
ので省きます。また、町長は、議長に声を掛ける前に現職の職員にも打診して断られていました。
 議長にお電話を差し上げます。
 「○○さんで納得していただきました。」
 元来フットワークの軽い方です。議長はその足で○○さんを訪ねてしまいます。
 「関口。どうしよう。断られてしまった。」
 「何でそんな勝手なことをしたんですか。○○さんは筋を通す方です。納得していただくための段取りが必要です。自分で壊してしま
ったのですから、自分で助役になって責任を取るしかありませんね。ただし、これで、町長の目はなくなったと自覚してください。」
 
 9月の議会を境に疑心暗鬼が広がりました。それに拍車をかけるように、町長の所在が掴めません。
 助役が、わたしに言います。10月前半のことです。
 「関口。このままでは、町政が持たない。町長に引導を渡せるのは、俺にしかできない。俺が鈴を着ける。会えるようにだんどってくれ
ないか。」
 「分って言っていますか。首を取る人が町長選に立候補はできませんよ。」
 「解ってる。でも、俺以外の誰にもできない。俺の役目だ。」
 わたしは、政治を志した者のひとりとして深く感動していました。
 10月10日、町長の誕生日であり、町では、町産の牛肉のPRを兼ねて、母衣旗(ほろはた)祭りが開かれています。わたしは知り合
いの結婚式に出席していたのですが、式場に町長から電話が入ります。
 「今朝まで病院にいて、何とか外出許可を取って祭りに顔を出してきた。夕方には病院に戻らなければならない。助役の所在を確かめ自
宅に来てくれるよう伝えてくれ。」
 「助役は同じ式場にいます。」
 議長に言われるまでもなく、町長から退任を開かしたことは書くまでもありません。
 その後、町長は、10日ほどで鬼籍に入り、帰らぬ人となってしまいました。
 
 
 
 新町長の誕生
 
 
 
  
 前町長の死亡に伴う選挙は、助役、元校長、代議士秘書の三つ巴。
 しかし、わたしには、確信がありました。助役は、町を憂い、身を捨て、場合によっては恨まれてしまうことも覚悟の上で、引導を渡す
役を担ってくださった。町長候補として、一度、死んだ人間。それが、現職町長の急死で候補者として、再浮上した。わたしは、それを必
然だと感じ、運命だと信じました。
 助役の落選が確定する、その瞬間、まで、当選を信じ疑うことはありませんでした。
 ただ、選挙選そのものが、坂道をころげ落ちるように、わたしの意図するものとは違った方向に進んでいたことも事実です。
 新町長に選ばれたのは、代議士の秘書をなさっていた方です。
 さかのぼること数年前から彼に対しては疑念を待っていました。さらに、それは、選挙戦の1年前に、大きな不信に変化します。
 当時、彼と親交のあった議員に言いました。
 「どんな思惑があって嘘を言うのか分からない。しかし、彼が、選挙に出馬する必然を整えるために、事実をネジ曲げるばかりでなく、
平気で人を辱めるのであるなら、どんなことがあっても、絶対、そちら側には組みしない。むしろ、反対する側に付く。そう、彼に伝えて
おいてください。」
 でも、今更、そのいきさつを明らかにしても、詮無いことです。
 ただ、許される逸脱と、許容範囲を越える逸脱があります。許容範囲が曖昧であっては困りますから、法律があります。しかし、少なく
ともわたしの判断は、法律に基づいてするのではなく、自分の倫理観に照らして行います。
 法律に依拠する問題ではなくとも、ついて良い嘘と、ついてはいけない嘘があります。ついても良い嘘を方便と呼びます。方便でない嘘
はついてはいけない嘘なのです。そのことだけは明示しておきます。
 当初のわたしには怒りしかありませんでした。しかし、彼は正しく町民に選任された町長です。町の発展のために、ただ、いがみ合って
も、それは、政争でしかありません。彼を理解し、協力できるのであれば、と、何度か試みました。しかし、溝は埋め難く、残念ですが、
わたしとは、違う倫理観の世界に生きている方でした。
 
 
 
二期目の当選、そして、町長現金ばらまき事件
 
 
 
 
 政権与党、野党などと呼称されます。わたしには、与党とか野党という概念はありません。町政は町民のためのものであって、町長のた
めでも、議員のために存在するものでもありません。
 反目するにしても、(町を良くする)その一点において、方法論、描くデザイン、到達点の違いでの凌ぎ合いでなければ意味をなしませ
ん。
 でも、世間は違います。わたしなどが、最も異を唱え、楯突いていたのは、むしろ前町長時代でした。ですが、町議選が始まってみる
と、前回の選挙を応援してくれていた人で、事務所に顔を出せなくなっている人が何人かいました。わたしに、反町長派という概念は存在
しなくとも、それが、野党ということなのでしょう。
 新町長のために(関口だけは何としても落とせ。)と、いう号令が漏れ伝わります。わたしの家から出てくる人に、別の町議候補の名刺
を渡す人まで出る始末。それを見た家内が震え上がります。
 「その人に『ごくろうさん』って言ってお茶を出してこい。いいか、よく考えろ。こんな逆風の時、事務所に、めげずに顔を出してくれ
ている人が、それを見てどう感じる。名刺を渡されて、その候補に入れようと思うか。そうか、よし、関口のために一票でも集めてあげよ
うと、反発しないか。つまり、その人は、ありがたいことに、当人は気づかないまま俺の選挙運動をしてくれている。」
 家内を納得させるために、本音としてのことばを繋ぎます。
 「これで当選は決まったな。」
 結果は、前回初当選した時を少し上回る票を戴くことができました。
 思えば、最初の出馬の時もそうでした。やっぱり町長選のしこりで3人の名前が上げられ、ターゲットにされます。その中のひとりが光
栄にもわたしでした。
 
 選挙戦の最中、新町長の町議立候補者への陣中見舞いと称する現金ばらまきが実行されます。
 わたしが遊説から戻ると町長が待っていてくれました。
 その時、反対派と目され、また、追求の手を緩めようともしないわたしの自宅兼選挙事務所を、町長が訪れてくれたことに感動すら覚え
ます。しかし、その感動から失望に変化するのに時間は要しませんでした。
 「これ、ポスター代です。」
 その厚さから、五千円や一万円ぐらいでないことは明白です。
 一番最初に思ったことは、(この人、何を考えているのだろう。)でした。
 次に(これは、事件になるぞ。)です。
 その時、不覚にもわたしは損得を考えていました。
 (事件になった時、ここで、突っ返してしまっては、警察への通報者はわたしが一番に疑われる。)
 そして、こうも考えます。
 (それにしても、このお金を証拠として、わたしが警察に駆け込むとは考えなかったのだろうか。)
 わたしが出した答え。
 (わたしの所に来るには、不安も、躊躇もあったはず。それを乗り越えて来てくれた。その真義には真義で応じよう。突っ返すようなこ
とはせず、とりあえず、一晩だけ預かろう。それに、一晩だけでも預かれば、この件が表面化するようなことになっても、まず、通報者と
して疑われるようなこともないだろう。)
 次の日の早朝、
 (厚意として、一万円だけ受け取ります。)
 旨の書面とともに返金します。
 さらに、どうしても気持ちが落ち着かず、同日、残した一万円についても返金し、
 (もし、この件が表面化するようなことがあっても、この件に関してわたしから口を開くようなことは絶対いたしません。)
 と認めます。
 
 これが、わたしに関しての事件との関わりの全てです。
 現金ばらまきの噂が町に流れ始めます。町民の反応は、
 「あの町長がそんなことをするはずがないでしょう。反対派が意図的に流した噂。」
 です。
 次に司直の手が入ります。町民の反応は、
 「状況も分からないまま、誘導されてしまった。嵌められた。」
 はっきり申し上げておきます。裁判も傍聴しましたが、現金ばらまきを強要した事実も、進められたような事実も一切出ていませんし、
弁護士からさえも、そこに触れられることはありませんでした。
 警察の参考人聴取が行われました。町長との約束がありますから、午前中、事実関係については、口を閉じたまま何も話しませんでし
た。でも、たった午前中で、全ての事実は明らかになっています。
 わたしは警察官に言いました。
 「こんな恰好のいい罪で大袈裟に騒ぐな。彼は、放っておいても、必ず、収賄で罪に問われる男。こんなことで罪に問われても、同情票
を集め必ず復権してしまう。彼の返り咲きを無くすためには、収賄のような復権不可能の罪でなければダメなんだ。」
 
 
 
 議員辞職
 
  
 
 町長が辞職するまでの3年間、議会は、まったくの異常事態、機能停止状態です。
 朝令暮改は当たり前、それを追求すると、地元紙に、
 (町長がやろうとしていることを、なぜ、邪魔ばかりする。)
 と、投書が掲載される。あげく、
 (町長をいじめるな。)
 「課長。わたしの指摘、杞憂に、委員会ではそんなことは絶対ない、と、おっしゃいましたよね。その説明を受けて議会で賛成しまし
た。実施段階で、絶対までつけて、『ない』とおっしゃっていたことが、平然と行われているのはおかしくありませんか。」
 その答えたるや、実にフルっています。
 「その時は、そう、思ったんです。」
 驚いたことに、県から出向していた課長までもが、議会で同じフレーズで答弁する始末。
 一審、二審の判決を受けて、
 (町長は早急に辞職すべし。)
 という投書が掲載されると、それに対しての反論が2通も3通も紙面を賑わす。新聞の論調も、
 (町長は確かに罪を犯した。しかし、一方の議会の道義的責任は。)
 犯罪として立件された町長の罪を追求するのではなく、ひとくくりにした上で、なぜか、議会の道義的責任ばかりを追及する。司直の手
で裁かれているのは町長であり、議員ではありません。道義的責任とは、それぞれの状況に合わせ、当人が感じればいいことであって、強
制する種類のものではないはず。
 議会は議会で、
 (まもなく最高裁の判断が出る時、助役の選任はないでしょう。人物がどうのこうのではなく、時期が悪い。)
 として、かろうじてではあっても助役選任を否決しながら、収入役の再任は通してしまう。
 面白いことに、公私ともに、最後まで、現金の受け取りがなかったと身の潔白を主張している議員が、どの案件にも賛成する。全員にお
金が渡っていて、自分だけ仲間はずれにされていれば、普通、怒ることはあっても、どうして、何にでも賛成に廻れる、と、ツッコミのひ
とつも入れたくなるところです。
 
 最高裁の判断が出る直前まで引っ張って、町長はようやく辞表を提出します。事件発覚から、すでに、3年が経過していました。
 町長の辞表は、議長に提出されます。わたしは、同じ部屋でそれを身届け、わたし自らの辞職願いを議長に提出したのです。
 きれい事を並べたてようというのではありません。事実、大事になるのではないかと予想しながら、すぐ返金するつもりではあっても、
一旦はお金も受け取りました。あらゆる危惧を憂慮した上で、それでも来てくれたと感じた、わたしなりの誠意の表し方です。事実につい
て、口外しないことも、勝手ではあっても約束しました。
 でも、事件として立件され、世間が知るところとなれば、事情は別です。潔く辞職し、その責任をこそ全うするのが筋です。
 議会も当然のごとく、一方の当事者です。全員が辞職し、この事件との、それぞれが、それぞれの関係を明らかにし、町民に、信を問う
べきです。しかし、もらってなどいない、と、強弁し、また、何の発言をすることもなく、ただ、黙って、風の通り過ぎるのを待つ議員が
多数を占める議会では、それを望むべくもありません。
 実は、何人かの議員で話し合いを持ちました。自分達だけでも、辞表を提出し、町民に審判を受けようか、という意見です。でも、それ
では、同じ考えを持ち、事件とはほとんど関わりのない者同士の戦いにしか成り得ない。いつか、立ち消えになってしまいます。
 わたしは、議員が議員としての職責を果たし、議員としてありたいと思うがゆえに辞職したつもりでした。
 
 
 
誤算
 
 
 
 
 わたしの台所事情は議員に限らず、皆さんが周知の事実、当然、辞職は、議員報酬を拠り所とするわたしにとって、大きな収入減。それ
でも、やむにやまれぬ思いの丈からの行動であることは、理解していただける、と、安易に考えていました。
 ところが、同僚議員からは、抜け駆けのパフォーマンスにしか写リません。ひとりで、恰好をつけたとしか捉えられません。
 応援してくれていた方からはお叱りを受けるばかり、
 「議員辞職は、選んでくれた有権者への裏切り。ただの職場放棄。」
 いただいたのは、とんちんかんな評価ばかり。
 「町長と一緒に辞表を提出してくれたのはあなただけ。」
 マスコミの論調は、
 (町議のひとりも責任を取って辞職。)
 正しく真意を理解していただけることはありませんでした。そこで、辞職に至った説明会を行いました。それでも、真意を理解してくだ
さった方はあまり多くはありません。
 事件が公になり、町長に辞職を迫りました。つまり、政界人に、死ね、と言ったのです。人に死ね、と迫った自分が、当人の辞職を受け
て、自分は無傷でいいとは思えませんでした。
 まして、議会の解散、出直し選挙を主張し、賛同が得られないことを理由に、温々と、席を温めていていいとはどうしても思えません。
 自分には、この事件に関する限りにおいて、現在でも、責任があったとは自覚していません。まして、断じて、責任を取って辞表を提出
したのではありません。
 でも、それは、わたしの身勝手な判断であり、そのためにこそ、全てを明らかにした上で、有権者の審判を受けようと考えました。たと
え、自分が辞職し、そのために執行される補欠選挙ではあっても、逆にその補欠選挙に出馬するためにこそ辞意を表明したのです。
 ところが、ここで、また、大きな誤算が生まれます。
 「責任を取って辞職したのに、自分の欠員の補欠選挙に、自分が立候補することなどありえない。」
 わたしが、どんなに説明を繰り返しても、支持者の多くが、(責任を取った)から離れてくれることはありません。
 残された道は、捲土重来を期して、町議の補欠選挙を見送ることしかありませんでした。
 
 
 
 
 落選・復権・収賄罪
 
 
 
 (一票一万円)
 などと言います。でも、お金で票を買うことなどはほとんど行われていません。
 よしんば、現実に買収があったとしても、やみくもに、見ず知らずの人にお金を渡すようなことは当然のごとくありません。警察の知る
所となれば、畢竟、両手が後ろに回ります。買収するにしても、自分が知っている人に限定され、さらに、候補者のためには、最悪、逮捕
されるようなことになっても受け入れられるだけの人間関係、思い入れがなければ、できるものではないのです。そして、そんな運動員を
何人持つことができるかどうかが、候補者の器量です。時には、選挙ブローカーよろしく、お金の流れを構築してあるプロもいないわけで
もありません。
 それでも、(お金で票を買う)というよりは、(お金で票を確認)し、逃げられないように(楔を打つ)と、理解したほうが、より、現
実に近いのではないでしょうか。
 簡単に言えば、自分の票を確認し、確定させるためにこそ、多額のお金が流れます。
 補選に立候補できなかったわたしは、次の通常町議選を待って、満を持して、立候補します。
 評判が良すぎるのです。
 どこの地区に行っても手を振ってくれます。その、手の振りようが違うのです。トイレに入っていたのか、ズボンを上げながら、片手で
ズボンを押さえ、声を掛けてくれます。裸足で家から飛び出し、駆け寄って握手を求めてくれる人がいます。本当にわたしを知ってくれて
いるのかどうか、畑で作業しているおばあちゃんの所に足を運んでみました。
 「俺は、こんな在のばばあだけど、あんたのことは良く知ってる。あんたみたいな人がいなければ、この町はダメになっちま。応援し
てっから、絶対、当選しておくれよ。」
 その時の選挙だったのかどうか、選挙費用を厳密に計算したことがあります。遊説に着るスーツまで含めて、合計38万円でした。選管
に水増しして届けるのはあなたぐらいだと笑われながら提出した合計金額は60数万円であったと記憶します。もっとも、それも違法行為
なのですが・・・。
 つまり、わたしの選挙は風頼み、票読みはともかく、確認、確定など不可能で、望むべくもありません。
 とんでもない票が生まれるのか、ただの上っ滑りなのか、まったく予測が立ちません。ただ、なぜか、どうにも不安だけが先行します。
 結果は、悪いほうに的中します。次点にすら大きく届かず落選という結果が待っていました。
 
 復権とは、公民権を停止されていた前町長が、公民権停止が解除され、任期満了を迎えた当時の町長との選挙戦での当選です。
 彼は、前に、三つ巴の選挙を戦い勝利しました。三つ巴の選挙ですから、当然、過半数の票は獲得してはいません。さらに、相手は、町
の名士であり、勢いに乗る二期目の選挙です。
 正直、どこを叩いても、現職の町長が落選するとは思ってもみませんでした。
 しかし、町民は、前科一犯の町長を選択します。
 さらに、次の選挙を、彼は無投票で再選されます。
 わたしには、彼に戦いを挑むだけの気力も体力も残ってはいませんでした。勝手にすれば、というのが偽らざる心境です。
 収賄罪とは、町長に返り咲いた彼の、懲りない犯罪です。
 町職員の採用に便宜を図る目的での収賄が発覚します。
 警察官に向かって言い放った、わたしが予想した通りの結末でした。
 
     
 
出直し町長選への出馬
 
 
 
 
 町長の失職を受けても、いわずもがなですが、わたしに町長選に出馬するような環境は整っていません。
 家業であった酒小売り業を廃業し、整体を生業としながら、細々と生計を営んでいました。
 わたしは、わたしの溢れる思いを、少しでもくみ取っていただき、町政に役立ててくれたらと願い、立ち会い演説会を開催します。そし
て、町長選挙に立候補を予定している3名に演説会の開催案内をお送りします。しかし、出席してくれたのは、お一人のみに止まります。
 町長戦には、わたしの演説会にも出席してくれ、(だんだん)という地元のミニコミ誌を編集する仲間であり、同僚の町会議員でもあ
った友人が、出馬表明をしていました。それこそ、行く先々で、ふたりが手を携え、協力するよう説得を受けます。
 わたしは、彼を、尊敬しています。でも、彼は、県会議員向きであって、どうしても、町長向きだとは思えません。それよりなにより、
あまりにも政治スタンスが違い過ぎるのです。
 町をどう捉え、どうしていかなければならないのか、わたしには、広く、町民に問いかけ、訴える。つまり、自ずから、出馬する道しか
残されてはいないのではないかと思い詰めるようになります。
 勝算など勿論ありません。でも、心からの叫びに、必ずや、共感してくださる人は現れると期待します。風は必ず起こせると確信もして
いました。
 でも、選挙とは、そんな甘いものではありません。よもや、供託金の没収、さらには、町会議員として当選した時よりも、さらに、低い
集票しか重ねることができないとは、予想だにしませんでした。現実は、4名の立候補者中、ダントツの最下位が突き付けられます。
 救いといえば、好むと好まざるとにかかわらず、より、自分の理想とする選挙選に近づけたこと。さらに、少ないながら、こんなわたし
を支えてくれた仲間がいたことでしょうか。
 そして、結果、町を後にする決心をし、現在は、須賀川市に居住しております。
  
 実は、ここまでが前振りです。
 わたしが、落選しようが、泡沫候補にしかなりえなかろうがどうでもよろしい。
 この後を書きたいがために恥を晒しています。
 
 
 
選挙公約 その1
 
 
 
 わたしが、あわよくばという思いを抱きつつも、選挙結果を度外視してでも訴えたかったことは地場産業の育成です。
 地場産業として位置付けたひとつが農業の振興、とりわけ、漢方、薬草の里造りを提唱します。
 しばらく前になりますが、国民的人気番組だった<水戸黄門>。ほとんどが、代官の悪政や重税に喘ぐ農民を黄門様が成敗します。農民
を、虐げられ、いじめられ、弱いものの代名詞として描きます。ところが、どっこい。農家とストリップは神代の昔から、現在に至るまで
連綿と続く職業です。
 天照大神が天の岩戸にお隠れになります。外で、天宇受命(あめのうずめのみこと)が裸で舞踊ります。すなわち、ストリップの起源で
す。外の騒がしさに、天照大神が岩戸から顔を覗かせます。天手力雄命(あまのたじからおのみこと)が岩戸をこじ開け、天照大神を引っ
張り出します。これがすなわち、相撲の起源です。
 弱く、虐げられた振りをみせながら、したたかに、しなやかに生き残ってきた職業が農業です。時代はどんなに変遷しても、作らないも
のを食べることはできません。
 前にタイを訪れた時、日本に留学経験のあるガイドさんに自慢されたことがあります。
 「日本は、世界一の工業国です。でも、何か、事が起これば、鉄を食べて生き残ることは不可能です。わたし達の国タイでは、乞食だっ
て餓死することはありません。」
 大分県旧大山町、現在は日田市ですが、米の増産が叫ばれていた時代、国の方針に逆行し、米作りをやめることにします。
 (桃、栗、植えて、ハワイに行こう)
 人口比で全国で一番、パスポートを取得した町になります。
 その後、バイオキノコに移行し、反収あたり、米の20倍近い収益をあげることのできる町になりました。
 四国は、徳島県の上勝町。自生するモミジをビジネスに変えました。
 お年寄りがパソコンを駆使し、注文を受けます。1千万円以上の売上げを上げる農家が生まれ、マスコミなどで何度も取り上げられ、ご
存じの方も多いと思います。
 では、そこで、今、どんな現象が起きているでしょう。孫の世代が町に戻り出したと聞きます。
 収入のある所に人は集まります。安定があれば恋愛が生まれます。一所懸命やってますよ、程度のアリバイ証明的政策としての花嫁対策
が功を奏すことはありません。自分の子供を嫁がせるのに躊躇するような所に、誰が好んで嫁ぐものですか。
 わたしは、少なくとも、わたしが生まれ育ったこの町は(もの)を生み出す、作り出す、ことを基盤、基調とする町であるべきと考えま
した。
 それが、漢方、薬草の里造りです。
 しいたけの産地といえば大分県です。でも、その大分県のしいたけの原木の多くは、当地方から送られます。ならばとて、一時、農家の
人達が、しいたけ栽培に手を染めます。でも、現在、残っている栽培農家は何軒あるのでしょうか。十分に採算はペイできているでしょう
か。こちらが本家といくら力説しても、市場が反応しなければ何の力にもなりません。
 当地方は畜産も比較的盛んです。質の良い牛肉を産出します。しかし、その多くは米沢牛として販売されます。石川牛としてのブランド
は残念ですが確立していません。
 10年ほど前、わたしが知る専業農家の数は三百数十軒だったと記憶します。しかし、後継者のいる専業農家は、すでに、数軒しかあり
ませんでした。
 耕地面積の少ない、後継者のいない、俗に言う、じじばば農業です。
 漢方、薬草であれば、少量、多品種栽培、さらに、農薬を入れるなどは御法度で、むしろ、できるだけ、自然にまかせた耕作状況など、
当地方の耕作環境、じじばば農業には適していると考えます。 
 日々草という薬草があります。
 ブームの火付け役になったのは、岐阜の故澤井繁、光子さんご夫妻です。お二人の元には、大学ノート百冊以上、延べ3万人のデータが
蓄積され、多くの大学の研究対象になっています。
 日々草は、東南アジアでは糖尿病の薬草として珍重されています。しかし、糖尿に対する薬効成分はまだ見つかってていません。ところ
が、血圧を下げる効果が確認されているばかりではなく、抗癌剤として使用されるアルカロイドが120種以上発見されています。
 最初に着目したのが、この、日々草でした。
 ただ、収穫するばかりではなく、青汁、煎じ薬、粉末、さらには、入浴剤、洗顔パットなど、加工まで手がけます。
 日々草を牽引作物、リーディング作物と位置づけ、その他の品種を増やして行く。福島県の石川町にさえ行けば、どんな漢方でも、どん
な薬草でも手に入る。石川で見つけることができないものは、他の何処をあたっても見つけられない。そこまで意識を定着させることがで
きれば、たとえ、余所から購入したものであってさえ、石川産です。そう冠をつけなければ売れません。つまり、大分のしいたけです。石
川産の米沢牛です。
 
 さらに、夢は広がります。
 漢方や、薬草はおだやかに、ゆっくり効果を表すと喧伝され、それを信じる方がほとんどです。でも、それは大きな間違い。
 わたしにとって、命を救ってくれるものが、あなたにとっては、命を奪う薬物足り得ます。そのくらい、効果、効能ははっきりします。
ただし、それでは万人向きにはなりません。そこで、効果の薄い製品だけが氾濫します。結果、おだやかに、ゆっくり、と、言わざろをえ
ません。
 漢方、薬草は、その組み合わせも重要なファクターになります。
 あなたのためのあなただけの組み合わせを作るためには、漢方、薬草、調剤薬局が重要な役割を担います。つまり、商業の活性化です。
自分に合った薬の調合を受けるために、短期の滞在も必要になります。その受け入れ体制も必要です。つまり、観光です。
 当町には、たくさんの温泉があり、旅館も完備され、その点において問題はありません。
 他の地域からお金を落とすシステム、さらには、そのお金を同じ町の中で環流する仕組みも別途必要です。入った1万円のお金が10カ
所経由すれば、10万円の経済価値になります。その波及効果は計り知れません。
 続けていくとキリがないのですが、説明を抜きにして、派生するもの、派生させなければならないものをアットランダムに書き連ねま
す。
 石川町に母畑という地区があり、レークサイドという施設があります。体育館、プール、グラウンド、スケート場、キャンプ場、マラソ
ンコース、テニス場もあったでしょうか。そこに、茅葺きの平安住居を5棟、併設します。ひとつの住居に50人程度の収容が可能です。
250名収容の体験型収容施設とします。また、廃校になった校舎を利用し、合宿所を建設、大学、サークル等の受け入れをしていきま
す。食事は自炊をしても、レストランで用意することも可能です。欲を言えば、合宿最終日には、打ち上げを兼ねて、地元温泉旅館を利用
していただくことができると申し分ありません。
 レストランで利用されていない大きなスペースを、たとえば、スポーツ選手がシーズンを終わって、体のメンテナンスを行い、旅館に逗
留しながら、のんびりと次のシーズンに備えていただくスポーツ医療施設にします。当然、漢方、薬草の有効利用を計ります。
 スポーツ医療専門家を招き、スポーツ医療の情報発信基地、つまり、町全体のキーワード、テーマが(健康)です。
 ここまで、漢方、薬草から出発し、売る、という観点での、商業、そして、観光にまで言及しました。
 観光で忘れていけないのが、目玉の見る観光です。
 石川町には、全国でも珍しい平地での分水嶺があります。その整備については、どうしても、付け加えておきたいと思います。
 農業に戻りますが、一番大事なことは、(ほしいものを作りなさい。ほしくなるように付加価値をつけなさい。ほしいところに持ってい
きなさい。佐藤仁威氏講演会談)です。さらには、適所適物(そんなことばはありません。合った作物を合った場所に作るという意味)が
大事です。
 間違いがあったらお許しください。
 どこでも同じなのですが、当地方でも御多分に漏れずりんごを平地で栽培します。
 治水や収穫などで問題があるからなのかも知れません。でも、木は成長します。成長すれば陰ができます。陰ができれば、良い品質のり
んごは実りません。陰を少なくするためには、せっかく成長した木を間引くことになります。
 では、段々畑に植樹したらどうなのでしょう。段々畑ですから、木が成長しても日陰は少なくてすみます。
 農業を知らない部外者の戯言と笑われてしまうでしょうか。でも、何も思いつかずりんごを例にしてしまいましたが、りんごはともかく
としても、無理な所で無理な栽培をしていることってないでしょうか。
 さらに、地元で採れた作物は、地元の土からの、地元に住む人へのプレゼントです。
 わたしは、カロリーとか、栄養価とかをあまり信用していません。地元で採れた作物を、地元で、地元の人が、摂ることが一番の健康法
だと確信しています。
 地元で採れた作物は、健康面からも、地元で消費する。そのシステム作りも急がれます。
 また、町の農業を考える時、専業農家、第一種兼業農家までをどうするかという問題であって、すべての業種の中で、収入も、平均貯蓄
高も一番の第二種兼業農家は、町がどうこうする問題ではありません。専業農家、第一種兼業農家をどうするかに特化します。
 
 地場産業の振興の大きなもうひとつの柱が、既存の工場、事業所に対する支援です。
 わたしは、議員時代から工場誘致には反対していました。議会と町民の対話集会などでは、
 「あなたのような議員がいるから、町は、少しも発展しないんだ。」
 と、直接罵倒される始末です。
 あなたの町や、近隣の市町村に、工場団地として、工場の進出がないまま放置され、ぺんぺん草が生えた広大な土地は眠ってませんか。
それが絵に描いた餅のなれの果て。それが真実の実体です。今、すぐにでも進出企業があるような素振りを見せながら、景気の変動など、
うまいこと言い訳だけは用意されているのでしょうね。
 では、幸運にも企業誘致に成功しました。
 神奈川県の座間市はどうなりましたか。茨城県の日立市は(日立が風邪をひくと、市が肺炎を起こす)とまで言われています。超優良企
業であったシャープ。テレビ事業からの撤退や合併などで揺れ、栃木県の矢板市は戦々兢々の状況です。少し古くなりますが、北海道夕張
市、最盛期には11万7千人あった人口が、炭坑の閉山とともに減り続け、現在では、1万3千人の人口しかありません。その他、工場の
閉鎖に右往左往している市町村は10や20の単位ではなく、あげていけば枚挙に暇がないほど地方そのものを直撃しています。
 何かに依存してできあがった町は、依存した産業の浮沈に連動し、栄枯盛衰は世の習い、一緒に衰退する運命が待っています。依存する
企業の規模が大きければ大きいほど、閉鎖、撤退のダメージは甚大です。
 首長、市町村長の候補者が金太郎飴のように、工場誘致を叫ぶ様がおかしくてなりません。本当にそれが地元を良くすると思って言って
いるのでしょうか。
 商店が商店として機能し、地域の文化、伝統を担っていた時代、大学を卒業しても、家業を継ぐ目的で、地元に子供が戻りました。で
も、現在では高等教育をすればするほど、地元に戻れない人材を輩出しています。問題なのはむしろ、働く場の確保などという近視眼的問
題なのではなく、大卒をどうやって地元に戻すことができるかなのではないでしょうか。商業に頼らない、新たな構築が急務です。だから
こその、地場産業の育成なのです。
 誘致を望むなら、工場ではなく、本社でなければなりません。本社の移転が難しいなら、地元の本社機能を併せ持つ、既存企業に大きく
なってもらうことが必要なのです。
 なぜ、本社なのか。簡単です。本社機能が喪失する時は倒産です。致し方ありません。でも、通常の場合、本社本体を守るために、不採
算工場を真っ先に閉鎖します。その一番最初に割をくうのが地方の工場、地方市町村です。
 わたしの友人にミシン屋さんがいました。彼に縫製会社の社長から依頼が舞い込みます。縫製する時、首周りだけは手縫いだったそうで
す。その首周りの縫製を機械化できないかというお話しです。
 紆余曲折があって、布と、木や金具を一体化する技術に特化し、それがやがて、冬季の屋根の融雪技術に変化します。
 新しい技術は、ダイナマイトの発明以来皆無だと言います。
 現在の新技術とは、新発明、新発見などではなく、ほとんどが、その技術とこの技術のかけ算なのだそうです。
 何を言いたいかといえば、つまり、既存の工場と工場の技術を持ち寄り、新しい技術を生む架け橋に町がなれないかと思うのです。小さ
な町工場に開発技術力も、ゆとりもありません。そこをこそ町を上げて担うのです。英知を結集するのです。
 結果、その工場が大きくなれば、本社機能を有した、景気の変動にも、おいそれと逃げ出せない地元企業の誕生です。
 夢物語りと笑うでしょうか。
 でも、政治に求められるのは、壮大な夢だと思っています。その、夢に向かって邁進する姿勢こそが政治なのだと考えます。始めの一歩
を踏み出さなければなにも変わりません。
 いずれにいたしましても、選挙公約のひとつの柱として、地場産業の育成、とりわけ、漢方、薬草の里作りと、既存工場の拡充を掲げま
した。
 
 
 選挙公約 その2
 
 
 
 もうひとつの公約の柱として掲げたのが(再生可能な町造り)です。
 ほとんど注目されることもなく、あまり理解されることもありませんでした。
 アメリカの名大統領と謳われるリンカーン。彼は、5度の自己破産を経験しています。5度の破産を経験したリンカーンが、大統領にな
れる国、それがアメリカです。
 翻って、我が国、日本はどうでしょう。
 交通事故の年間死亡者数が5千人以下。それに引き換え、自殺者は3万を越えています。当然、その全てが、事業の失敗による自殺者で
はありませんが、そのうちの20%、6千人以上が経済、生活苦からの自殺です。
 5千人以下の交通事故死者であっても社会問題です。その7倍もの自殺者数は異常であり、その20%とはいえ、交通事故の死者数より
も多い、経済、生活苦での自殺者数は看過できる数値ではありません。
 世の中は矛盾に満ち満ちています。
 現在は法規制が厳格化し、多くのサラ金が退場を余儀なくされましたが、グレーゾーンなる罰則規定のない違法金利が大手を振ってまか
り通っていました。グレーゾーンなどと言うソフトな表現を使ってはいても、たとえ罰則規定がなかろうとも、違反は違反。違法は違法で
す。その、違法金利を公然と徴収する会社が、株式の一部上場企業になれる不思議。
 さらには、違法金利を貪る企業の広告を、テレビ媒体でよし、大手新聞でよし、週刊誌でよし、堂々と広告してはばからない不思議。
 当時、多重債務者の弁護を引き受けてくれたのは、前日弁連会長の宇都宮健児弁護士を筆頭とするわずかな弁護士だけでした。サラ金の
コマーシャルの減少と相関関係をなすように、それまで、相手にもしてくれなかった多くの弁護士が、市場ありと判断したのかどうか、正
義の味方を装い(払い過ぎたお金は取り戻せます)。いけしゃあしゃあとお出ましになる不思議。
 傍若無人、厚顔無恥も極われり、こんどは、サラ金で潤ったはずのマスコミが、臆面もなく、弁護士事務所のCMを垂れ流します。不思
議というよりは、同じ意味ではあっても、面妖と表現したほうが適切な気がします。
 取り戻してくれた金額より、弁護士費用が嵩み、不足額を弁護士事務所から請求されたというような笑うに笑えない話しまで聞きます。
 法律を厳格にし過ぎたので、むしろ、闇金の横行を招いてしまっている、少し、規制を緩めるべき、と宣う国会議員までいる始末。
 それは、闇金を正しく取り締まればいいだけのことでは・・・。
 マスコミがちょっと調べただけで闇金であれ、オレオレ詐欺であれ、場所の特定が可能であるにも関わらず、一時停止違反やシートベル
ト装着違反など、微罪で、注意を与えればいい程度のものに血道をあげるばかりで、検挙しなければならない犯罪には、被害者側に注意を
喚起するだけの警察の不思議。
 どっかの国会議員が、サラ金で助かった人もいる、とも言ってましたっけ。
 最高で39%(当時)もの金利であることを承知で、それでも借りなければならないほど追いつめられている人が、どうやったらそこか
ら立ち直れますか。むしろ、一旦、精算し、出直すことのほうが賢明なのではないでしょうか。
 国に、現在困っている人達を救済する具体的な方策がないなら、日本全国に一ケ所ぐらい、彼達を受け入れることのできる町があっても
いいのではないかと考えます。もう一度、立ち直るきっかけを与えることができる町があってもいいのではと考えます。
 町営の住宅などに、受け入れ、匿い、法的な解決、福祉的支援、就業支援を行い、もう一度、再生するためのお手伝いをいたします。さ
らに、彼達にも、積極的に町造りに参画していただき、経験、能力を活かして活動の場を提供するのです。
 それは、事業経営の失敗者に止まらず、女性の駆け込み寺的要素があってもいいと思いますし、母子家庭、父子家庭の受け入れであって
もいいはずです。
 こんなことを書くと、必ずと言っていいほど、したり顔で、物を言う人がいます。
 ギャンブルや、遊興費の使いすぎでの自己破産者、逃亡者はどうする。正式には離婚が確定していない母子家庭はどうする。偽装離婚の
扱いはどうする。
 では、逆にお聞きします。だから、何もしなくともいい、と言う理屈にはなりませんよね。
 まずは、するのか、しないのか。するとすれば、どんな問題があり、そこをどうクリアーするのか。そこにこそ、公僕としての、役場職
員の能力を生かす場所が生まれます。
 政治は、必要な方向性を定めます。役場職員は、できない、やれない、言い訳を繰り返すのではなく、どうすることで前に進めることが
できるのかを検討します。それが求められる役割分担のはずです。
 当然、地元で、事業に失敗した人の応援をするのはいわずもがなです。
 選んで町を出ようとする人は仕方ありません。でも、町に残りたくても、残ることができない人のために、残れるためのあらゆる方法を
模索します。
 町に、顧問の弁護士を置き、弁護士の指導の元、あらゆる手段を駆使していくことは言うまでもありません。
 
 もうひとつが、移住者の積極的受け入れです。
 田舎暮らしにあこがれる家族に門戸を開きます。
 土地、建物を求めての完全移住であっても、セカンドハウスとしてであっても、賃貸であっても結構です。
 職業として農業を考える人でも、その他の就業を求める人であっても、退職し、のんびり、ゆったり、少しだけ、家庭菜園を希望する人
であっても、多岐に渡る要求、要望にお応えできる環境を整備するのです。
 第二種兼業農家の土地は売却でよし、借り上げでよし、積極的にはき出していただき、町が管理し、専業農家、第一種兼業農家に集約
します。さらに、残った耕作地を移住希望者にお貸しするのです。
 わたしが関わっていた地元の<だんだん>という月刊誌があります。そこで、農業特集を組んだ時、農業の将来について、座談会方式で
議論を深めていたのですが、編集者のひとりであり、農業従事者からこんな発言がありました。
 「農業などなくなってもいいんだ。逆に、自分で食べるものは、自分で作ること。これからはそれが最大の贅沢になる。」
 まさにその通りの時代がやってきています。(自分で作った作物を自分で食べる)そのニーズにお応えするのです。
 現在はどうなっているのか知る由もありませんが、町営住宅に入居するためには、2名の保証人を求められました。頼みにいけるところ
もなく、わたしを頼ってくださった方が何人かおられます。明言させていただきますが、その方々に迷惑を被ったことはありません。
 ただ、町が管理する物件を賃貸する場合、他町からいらして、地元に知り合いもいらっしゃらない方は、当然、町に住む保証人などを求
めることは叶いません。そこをどうするかの検討から着手しなければなりません。
 
 わたしが公約として掲げたのは、(地場産業の育成)と(再生可能な町造り)の二点です。
 さらに、言及したのは、役場で発行する証明書などを各地区の支所で発行できるようにすること。町の顔である、役場窓口の対応のサー
ビス化。
 サービスと言うと漠然としてしまいます。
 役場で証明などを求める時、印紙を要求されることがあります。その場合、町に出て購入していたのですが、ある時、役場職員が、
 「関口さん。200円の印紙が必要です。窓口に銀行員がいてくれていますから、そこで購入できますので張って提出してください。」
 そんなことは今まで言われたことも、勿論、知ることもありませんでした。
 たったこれだけのことが、大きなサービスです。
 わたしの場合は車ですから、少々面倒でも、外にでることは容易です。でも、お年寄りで徒歩で移動する方にとっては大変な労力です。
そんな声掛けがお年寄りにとってはどれほどありがたいことであるかご理解いただけるはずです。
 求めに応じてわがままに付き合え、というのではありません。できないものはできないのです。でも、可能なことを可能なこととして受
けてあげることひとつがサービスの本質です。そんな意識改革を窓口に持ち込みたいと考えます。
 そして、進んでいた町立の図書館にもふれ、国内外、新旧の車のカタログを網羅すること、そして、古史古伝に関する書物をできるだけ
収拾することも提案します。
 少し説明を加えますと、ほとんどが偽書として扱われているのですが、日本書紀、古事記、以前から存在すると主張される、古史古伝と
総称される書物が存在します。
 青森県新郷村、旧戸来村(へらい=へぶらい)。磔刑になったのは、弟のイスキリで、キリストは日本に逃れてきたとする竹内文書が元
になって発見されます。
 そこで歌われる盆踊りの合いの手が旧ヘブライ語であったり、ユダヤの風習が残っていたり、代々続く庄屋さんの裏家紋がダビデ紋であ
ったり、その真贋は別として、たくさんの夢を与えてくれます。
 古史古伝マニアと称する人はたくさんおられ、関連書籍も多数存在します。その、関連する書籍をたくさん集めることで、設備が整った
立派な図書館、蔵書の冊数を誇る図書館、それら、お金に物をいわせる図書館との差別化が図れるのではないかと考えます。さらには、絶
版になっているような古史古伝関連書籍まで蔵書することで、古史古伝マニアが一度は訪れたい町、場所になるのではないでしょうか。
 
 ここまでが、泡沫候補としてのわたしの足跡です。
 これを、ただの夢物語りとして取るか、活かせる部分を取り上げてくださる方がいらっしゃるかどうか、それはわたしの知るところでは
ありません。
 ただ、政治に夢を託し歩んだ、わたしのメモリアルとして、その足跡だけでも記しておきたいと思いました。
 さらに、ここからは、泡沫候補から見た気になっている問題について、さらに、言及していきたいと思います。
 
  
 
 
 泡沫候補の改憲論
 
 
 
 
 1946年11月3日 公布 日本国憲法
 
 第9条
 [戦争の放棄、軍備及び交戦権の否認]
 1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛
   争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
 この条文のどこをひねったら自衛隊を持てるのでしょう。自衛権は残されているとおっしゃる。では、どこまでが自衛権なのでしょう。
戦後復興名目で、自衛隊がイラクに駐留。自衛権のどこを押すと自衛隊の駐留が可能なのでしょう。アフガン戦争だったでしょうか、外国
の軍隊に石油の供給を行いました。補給であれ、後方支援であれ、それって、戦争への参加ですよね。
 国は特別立法を急拵えし、正式名称(テロ対策特別措置法)として対応しました。しかし、憲法の精神に反する立法は違法でしかありま
せん。どんな詭弁を弄しても誤魔化しでしかありません。
 自衛権云々とおっしゃる、では、専守防衛は自衛権の範疇ですか。
 シビリアンコントロールとおっしゃる。では、火急を要す時、文民統制は可能ですか。
 何も決まってはいませんよね。決らめれるはずがありません。
 シーレーンはどうでしょう。
 高校1年の弁論大会で取り上げ、煙に巻いた記憶がありますが、シーレーンを封鎖されると、日本に入る石油タンカーは、アフリカ大陸を
外回りに大きく迂回しなければなりません。到着するまでの日数もかかりますし、原油価格そのものが高騰し、石油を輸入に頼る日本経済
にとっては大きな打撃になります。シーレーンを安全に航行するために、自衛権としての、シーレーン出動は本当に可能なのでしょうか。
 遠くアフリカの海上封鎖や海賊などを持ち出すまでもなく、南シナ海はどうですか。台湾近海や、尖閣諸島はどうですか。当然、シーレ
ーンの範疇です。
 
 日本中が、日中国交回復の熱に浮かれている時、正常化交渉の推進派だった地元選出の国会議員に疑問を呈します。
 「今まで、台湾というお友達と仲良くしてきました。ところが、中国という力を持った国が台頭してきます。その中国に『仲良くしまし
ょうよ。』と働きかけます。中国が言うには、『台湾との関係を絶つなら仲良くしてあげてもいいよ。』という言い分です。政治は感情論
ではありません。でも、『どちらの国とも仲良くしますよ。』と言うならともかく、台湾との関係まで絶って、中国と、今、国交を回復し
なければならないのはなぜですか。どうにも納得がいきません。」
 議員は、
 「君、そんなことでは話しにならないよ。」
 の、一言でした。
 わたしはここで大きな無知を晒しています。台湾は、独立国だと勘違いしていたのです。台湾問題は中国の内政問題とする中国の立場を
把握してはいませんでした。把握はしていても、ただ、単純に、中国の一方的な主張でしかない、と、理解していました。
 それにしても、たとえば、
 「はい。はい。あなたの言い分は十分了解しましたよ。」
 その上で、したたかで、しなやかな対応をすることが外交のはず。
 ところがどうでしょう。
 この度の震災で、一番最初に救援隊の派遣を申し出てくれた台湾を足止めし、中国の顔色を伺う。緊急時の早急な救助より、中国の動向
が大切ですか。親日的で、常に、友好的な態度で接してくれ、あまつさえ、多額の義援金を寄せてくれた台湾を袖にすることが日本の国益
ですか。
 台湾の存在そのものが、台湾近海の我が国シーレーンにとって重要なファクターです。台湾が日本にとっての重要な防波堤でもありま
す。もう少し、台湾を大事にすべきなのではないでしょうか。台湾問題とは、中国の国内問題に止まらず、日本にとっての国内問題でもあ
ります。
 
 先日の地方新聞の小さな記事で、(平和憲法を守る集い)が開かれていたことを知りました。社会党無きあと、懐かしく、感慨深い思い
で記事を読みました。個々人が、どんな思想信条をお持ちであっても、わたしごときが口を挟むことではありません。自衛隊を無くしたい
というのであれば無くす努力をなさればいい。紛争の解決の手段は対話での交渉でと主張されることも一向に構いません。
 でも、平和憲法のもとで、警察予備隊と言おうが、自衛隊と呼ぼうが、持てないはずの武力を持った軍隊が現に存在する。それって矛盾
じゃありません。憲法だけを擁護しても、自衛隊がある限り、条文だけの空念仏、自衛隊の存在自体が憲法違反でしかありません。帳尻合
わせや、解釈で乗り切れるほど小さな問題ではないのです。国の根幹に関わる問題をいつまで棚上げにし続けるのですか。
 第9条の条文を意訳をすれば、わたしのぼんくら頭では
 (武力の行使は、紛争を解決する手段として放棄する)
 としか読み解けません。
 読み解く必要などはなく、
 (陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。)
 と明確に定義しています。
 自衛隊は隊であり、軍とは呼称していないから軍ではないなどと言い訳をすれば、今時の小学生にでも笑われてしまいませんか。
 憲法を読む限り、自衛隊が存続してはいけないのです。百歩譲って、自衛隊は存続できるとしても、武器を持ってはいけないのです。た
とえ武器を持っていたとしても使用してはいけないのです。しかし、武力を前提としない武器保有などあるえる道理がありません。
 わたしは思うのです。
 日本国の尊厳である憲法と現実の実体とに乖離があれば、自衛隊を廃止するにしても、憲法を変えるにしても、日本国の指針を協議し、
司るべき最高意志決定期間である国会が、矛盾を埋める努力をするのは必然の責任ではないのでしょうか。
 
 わたしは、何も、自衛隊を合法化するために改憲すべきと主張しているのではありません。
 現在、国民の意識が、尖閣の問題、竹島の問題などで、大きく右傾化の傾向を示しています。日本全体が右傾化し過ぎることも、逆に、
左傾化し過ぎることも、大変危険だと思っています。左右両極に全体がぶれるのではなく、議論を深めるためには、両極に適当な数の人員
が配置されていることが健全な国家のあり方だとも考えます。
 当然、言論の自由が保証され、自分の意見とは違う主張も尊重し、違う主張をする人を受け入れる国であり続けなければなりません。
 ただし、今、しなければならない論点とは、憲法と現実とに齟齬はないかどうかという一点についてです。
 でも、どう、強弁しようが、矛盾があることは明白な事実です。
 その矛盾を埋めるためには、何をどうしなければならないかの問題です。
 憲法の精神に則り、自衛隊を解散すべきと主張するなら、それもひとつの考え方です。でも、自衛隊は認めるが、憲法改正には反対で
は、論理的に成立しません。護憲を掲げるなら自衛隊の解散を要求して初めて整合性がとれます。
 国民の大多数が自衛隊を否定するのであれば、このままの憲法でもいいのかもしれません。自衛隊を解散すればすむことです。でも、そ
れでさえ、わたしは改憲の要有りと考えています。
 解釈の余地を残す憲法を押し頂いていては、その時々、都合の良い解釈が生まれます。解釈の余地のない、平易な文章の憲法に変えるべ
きです。
 大方の国民が自衛隊の存続を容認している現実の前で、現実に即した憲法の改正が行われなければならないことは、火を見るより明らか
です。
 
 憲法改正の要ありやなきや。その他の論戦は、その判断がなされた上での議論でなければなりません。
 改憲の必要性を感じる国会議員が3分の2を占めて初めて、では、どんな憲法にすべきか検討すればいいのです。
 一緒くたにした議論はおかしいのです。
 わたしは、軍隊を持てるように改正しろと言うつもりはありません。改正することが決定して初めて、国民こぞって議論したらいいので
す。議論を深め、どうしても、溝が埋まらなければ多数決を取ったらいい。それは、国会議員の多数決であれ、国民投票であれ、です。
 重要な課題については、国民投票にすることも必要なのかもしれません。国民総参加で物事を決する、それこそが民主主義の原点です。
 多数を占めたから、それが、正義ではありません。大きく道を踏み誤るかもしれません。でも、それも仕方がないのです。独裁でもない
限り、多数決以上に有効な意志決定手段はないのですから・・・。
 大多数が賛成して、自衛隊を持たない憲法に改めるなら、自衛隊を解散することがあってもいいのです。
 自衛隊を自衛権の範疇に押しとどめ、国連平和維持軍としての参加までを限度とするならそれでも結構。
 自衛隊を軍隊として認める。それが大多数の考えなら、これもまた仕方がないのです。
 矛盾を放置したまま、入口にも立たないでする論戦を議論とは言いません。日本国の未来を担う日本国憲法をどうするのか、そこでこそ
議論を深めるべきなのです。
 その意味においても、速やかに改憲の決定がなされ、その上で、では、日本の将来のために、どんな条文にすることが、真に日本の国益
に叶うのか、一過性の感情ではなく、時間を費やしてでも冷静な判断をすべきです。
 要は矛盾を内包し、解釈の余地を残した憲法をこのままにしておくべきではなく、どう決まるにしても、国民の総意、国民の大多数が納
得できる憲法に改めるべきなのです。
 国会を(言論の府)と言います。憲法と自衛隊の存在に矛盾が存在する以上、どうするのかの恒常的な議論が求められます。その論戦す
らできない、タブー視する勢力があるのだとするなら、それは国会ではありませんし、国会議員でいる資格すらありません。
 改憲には、国会議員の3分の2の賛成が必要です。その高いハードルは変えるべきではありません。それが日本国の見識ですから。その
ハードルを越えた先の多数決が、たとえ、51対49であっても多数決に則ります。それが民主主義のルールです。
 
 
 
 日本の行く末
 
 
 
 
 民主党政権。誰が求めた訳でもないのに、子供手当、出産手当、公立高校の授業料無償化、農業の戸別所得保証、ガソリンの暫定税率の
廃止、高速道路の無料化、それら、ばらまきとも取れるマニフェストを掲げました。
 でも、国民が民主党に求めた改革とは、行財政改革、特に、官僚支配体制からの脱却だったのではなかったでしょうか。
 一番に手を付けなければなならかったのは、まず、機構そのものの改変であり、機構にぶらさがる外郭団体の統廃合であったはずです。
ケースバイケースで、天下りを全て悪と決めつけるつもりも、断罪するつもりもありませんが、それでも、渡り、と称する天下りの廃止だ
ったはずです。
 しかし、そこで実行された施策は、事業仕分け、という、法的根拠すら存在しない、得体の知れない田舎芝居。そのほとんどが、名前を
変えて復活するという体たらく。国民の希望は、失望に転化し、民主党は、自分で掲げたマニフェストで自滅の道を歩みます。
 昔のコマーシャルにあったじゃないですか。(臭い臭いは元から断たなきゃダメ)
 仲間が、月一回、東京の憲政記念館で主宰して開く勉強会に主席しました。現在は民主党を離れていますが、当時は、民主党所属のある
議員が参加しています。
 彼の口をついて出たことばは、政策でもなんでもなく、選挙戦の進め方の方法論だけでした。
 司会者がわたしに発言を振ります。
 「自民党の賞味期限が切れたことは、国民の大半が理解しています。こんな国にしてしまった責任は間違いなく、自民党政権にありま
す。今、○○議員から、選挙選についてのお話しがありました。でも、そんなお話しは内々ですればいいお話しです。国民が望んでいるこ
とはそんなことではありません。こんどの衆議院選挙では自民党が大敗しました。でも、それは、自民党の敗北であって、民主党の勝利で
はありません。ただ単に、自民党が勝手に転けただけです。そこを間違わないでほしい。日本にとっての不幸とは何でしょう。民主党など
という得体の知れない政党が存在する不幸です。右なのか左なのか解らない。甘いのか、辛いのか解らない。上なんだか、下なんだか解ら
ない。なにを言いたいのか、なにをしたいのか解らない。申し訳ありませんが、そのことを正しく理解しないと、民主党に次はありませ
ん。」
 その代議士は二度と会合に出席することはありませんでした。
 この国にとっての本当の不幸とは、政権担当能力のある第二党が存在しない不幸です。
 
 子供手当がいただけるのであればそれにこしたことはありません。税金が安くなるならそれにこしたことはありません。高速道路が無料
で走れるならそれにこしたことはありません。
 でも、その前に、国会議員としてすべきことはなかったのでしょうか。
 それは、自民党であれ、公明党であれ、共産党であれ、同じです。
 日本をどうしたいのですか。
 もっと具体的に言うなら、北欧型の、高福祉、高負担の国を目標とするのですか。それとも、現状に準ずるような、中福祉、中負担の国
を維持するのですか。さらには、福祉については自己責任として、低負担の国に改めるのですか。
 国民にしてみれば、税金は限りなくゼロに近いほうがいいし、福祉は、いたれりつくせりがいいに決まっています。でも、そんなことは
不可能です。その根本をないがしろにしたまま、バラ色の実体の伴わない空念仏を聞かされたり、絵空事だけを並べたてられても困りま
す。
 まずは、日本を世界の中でどう位置づけ、世界との関わりの中でどういう国にするのか。どんな国を理想とし、何を目指すのかという大
命題、グランドデザインを提示してくれることが政治の勤めであり、理想とする国の到達点、プロセス、方法論の違いが政党の違いのはず
です。
 そこから導き出される、より、具体策が、政権公約でなければなりません。
 原点が存在しない総花的羅列では、向こう受けを狙った当選目当ての表層的スローガンでしかありません。
 
 憲政記念館の勉強会の帰りのバスの中で、次の参議院選挙の立候補予定者が立候補にあたって挨拶を求められます。
 「減税に取り組み、福祉を充実させます。特に、高齢者の福祉を拡充したいと思います。」
 また、なぜかわたしが発言を求められます。
 「ここにいる人で、減税を求めるような人も、福祉のお世話になりたい人もいないと思います。いくつになっても働いて、国に税金を納
めたい人ばかりです。ただ、ここにいるほとんどの人が貧乏です。働きたくとも働く場所がない。いくら頑張っても経営が上向きにならな
い。問題はそっちにあります。ざっと見渡したらお年寄りが多い。減税と福祉を言っておけば喜んでくれるだろう程度の認識でお話しをさ
れたのだとしたら大きな間違いです。票ほしさに向き向きの話しはしないでほしい。自分とはたとえ考えが違っていても、わたし達が感じ
たいのは、あなたの国政に対する熱い情熱をこそ感じたいのです。」
 戦後、日本は(追いつけ、追い越せ)のかけ声で、力をひとつに走り続けてきました。先進国に追いつきました。先進国の仲間入りを果
たしました。先進国を追い越したのでしょうか。追い越せてないなら、追い越すためには何が不足しているのでしょう。追い越したとする
なら、では、新たに、どんな国であることを標榜するのでしょう。もっと言うなら、追い越す必要はあったのでしょうか。経済規模の拡大
だけが、国民が幸せになる道なのでしょうか。
 歴史は繰り返します。この度の衆議院議員選挙で自民党が大勝しました。こんどは自民党の勝利ではなく、民主党のなだれのような自滅
です。知ってか知らずか、自民党幹部に笑顔はありませんでした。自民党に対する集票はむしろ減っているにも関わらず、自民党、公明党
で3分の2の議席を占めることになりました。自民党が昔と同じように、既得権益者の代表であったり、官僚主導の政治しか続けられなけ
れば、次の選挙では、民主党の二の舞い、解党的ダメージを受けることが明らかになった選挙でした。これから自公政権与党の真の実力が
試される4年間になります。
 理想の旗を降ろした時、政治家ではなく政治屋になります。
 政治が国民におもねた時、国は潰れます。
 
 
 
 衆議院議員定数
 
 
 
 全ての案件、議題は、全ての国民の多数決によって決する。それが民主主義の原則、鉄則です。
 しかし、それは不可能です。故に代議員制度を取り入れています。
 代議員の数が多ければ多いほど、少数意見まで含めて国民の意思が反映されます。つまり、代議員の数は多ければ多いのにこしたことは
ないのです。それが基本です。
 誰でもガ知っていることです。誰でもが知っているはずなのですが、その、基本を忘れた議論の何と多いことか・・・。
 議員定数削減。行き着く先は、議員などいらない、と主張することに他なりません。
 
 しかし、国のバランスシートが、毎年大赤字を垂れ流す現状で、議員の数だけを聖域にすることはもはや不可能です。
 ですから、議員定数の削減とは、<やむなく>の、削減でなければなりません。その前提を蔑ろにしては絶対いけないのです。
 
 それを踏まえて書きます。
 比例代表制を撤廃すべきです。
 重複立候補。復活当選。議員の、議員による、議員のための救済策でしかありません。
 比例代表制を導入することで死に票を少なくすることができるとおっしゃる。比例代表制をなくすことで、少数意見が反映されないとお
っしゃる。でも、現実に、支持する政党を持たない有権者が7割近くいる現状の前では意味を持ちません。
 それでは、少数政党が生き残れない。生き残る必要はありません。政党の存続のために政治があるのではありません。国民のためにこそ
政治があるのであって、政党が生き残るために政治を利用してはいけません。
 まして、議員でいることだけが少数意見を反映することでもないのです。あらゆる手段、方法があります。その、手段、方法で、当選で
きるだけの同調者を増やすことが担保される国であればいいだけのことです。
 現に、わたしのような泡沫候補が、ネットという媒体を通じて、自分の思いのたけを書き連ねています。
 
 衆議院議員定数は300名とします。
 一票の格差の埒外に、地域割りを設定します。北海道に3名、神奈川を除いた各県に1名の別枠を設定し、計45名が地域割り当て候補
です。残り、255名について都道府県の人口に合わせて選挙区1名での区割りの見直しを行います。または、都道府県を1選挙区として
人口割り定数を割り当てます。選挙ごとに定数の見直しも可能になります。
 
 
 
 
 参議院改革
 
 
 
 
 貴族院、そして、参議院と続く、良識の府としての権能を回復することに重点を置きます。
 都道府県、及び、制令指定都市の首長を3期以上勤め、退任した方、衆議院議員を5期以上務めた方、100名で構成します。
 選挙によらない選任方法で選出することで、真に国益の観点から、能力を役立てていただきます。
 一期を4年とし、半数の50人を入れ替え、その間は政治と関わりを持つ党籍などは離脱していただきます。党是ではなく、有識者個人
として、自由な信条から向き合っていただくのです。当然ですが、党籍を離脱するかどうかは個人の選択、自由です。ただし、党籍を離脱
できない方の選任は致しません。党に縛られる衆議院との差別化です。
 報酬は生活費程度、あくまでも、名誉職として、国のために最後のご奉公です。
 身内、地元以外からの秘書3名を置き、費用は国が負担します。
 それではお年寄りばかりになってしまう弊害が指摘されるかもしれません。ただ、ここでのポイントは、政党によらない個人であるこ
と。思い切った定数の削減がメーンの改革です。
 ですから、現行制度での任期、現行制度での選挙であっても、党籍の離脱、無所属での立候補が重要で、改選50名は、道州制の導入で
なくとも、東北なら東北を1区として人口割り定数を配分する選挙区とします。
 以上が参議院についての末端の無識者からの一提言です。
 総理大臣についても一年交代での現状ではどうにもなりません。そこにこそ、官僚がつけ込む余地を残しています。
 任期を定め、直接、国民投票で選出すべきです。
 そんな議論は昔からあります。現状を是認するにしても、国民投票で総理を選出するにしても、なぜ、この国は、何も決めることができ
ないのでしょう。決めることが議員としての義務、職務、責務ではありませんか。
 中身のないトーンだけが大きいかけ声や、美辞麗句、これ見よがしの演出だけではなく、より具体的な進展、成果が議員としての最大の
使命です。
 
 
 
 
 原子力発電
 
 
 
 
 原子力発電の問題になると、急に声を潜めざろをえません。
 あまりにも無知過ぎました。
 最終処分場と言います。言われていた、地中深く埋めておくことが、字義の通り、最終の処分なのだと思っていました。それは、仕方が
ないこととして、許容するしかないものと思っていました。
 ところが、それは最終処分でも何でもなく、無力化する技術が開発されていないだけの不完全な代物であることを、今回、初めて知りま
す。それでは、鼻っから推進してはいけない技術だったことになります。
 新聞などで、トラブルで、運転が停止する事故の報道があります。それに対して、巷間、伝えられた情報は、すぐにも運転が停止される
システムになっているからこそ安全なのだと聞いていました。運転さえ停止されれば、それで安全が確保されるものと思っていました。熱
せられた燃料棒が、40年、50年という長期のスパンでしか冷却されないことなど知る由もなく、今回の事故後初めて知ります。
 その程度のことも知らなかったの、と、笑われてしまいそうですが、どう冷笑されようが、己の無知を恥じるしかありません。
 現在、大飯原発、敦賀原発の地下が活断層かどうかの地質調査が実施されています。それって、今更何。
 活断層だとする学者、ただの滑った跡だとする説に二分されています。
 専門の地質学者でさえ意見が別れる地層の上に、現に原発は稼動しています。
 ところが、意見は二分されているようですが、滑った跡と考える学者であっても、活断層でないとは断定できないとしています。
 危険な原発であるからこそ、安全の上にも安全を確認し、検証に検証を加えていかなければなりません。まして、火山列島の上に立つ原
発であればなおさらです。
 考えられる最大限の対応がなされているものと安易に信じ、惰眠を貪ってきました。 
 ところが、御用学者だけを集め、都合のよい結果だけを取り上げ、砂上に楼閣を積み上げ、無理の上に無理を重ね、嘘の上に嘘を塗りた
くった結果が、今回の原発事故であることは明らかです。 
 最大限の備えを考えることは可能だと言います。後は、コストとの対応だと言います。ちょっと待って。原子力発電が、一番安全で安価
な発電だと言っていたのはあなた達専門家と称する人種ではなかったのでしょうか。日本の有識者、知識層、専門家とは、相矛盾する言
を、どう言いくるめることができるかの能力を持った人を言うのでしょうか。
 起るべくして起きた原発事故の被災県に住む、当事者として、原発推進とは言えませんし、当然、原発賛成とも言えません。
 福島県に新たな原発を造ることは不可能です。常識的に考えて、日本で原発を新設することも無理でしょう。
 でも、既存の原発を、即時、撤廃賛成かと問われると、答えに窮します。分からないのです。
 ほとんどの原発立地市町村は原発に依存しています。大飯原発などでは、住民の90%が原発関連の仕事に従事していると言います。原
発がなくなった時、地域経済はどうなるのでしょう。
 原発撤退の関連の仕事が出ると言います。でも、それは、極めて限定的なもので、地域経済を支えるだけの力にはなりません。原発即時
撤廃を主張すると同時に、その地域をどうするかの議論が忘れさられているような気がしてなりません。
 事、ここに及んでさえ、情報が氾濫している割りには、何が正しくて、何が、間違った情報なのかを正しく理解できません。
 原発を早急に可動しないと、需要期の電力が不足すると煽っていました。でも、停電は起きませんでした。
 化石燃料に頼ることで、環境に悪影響が出るばかりか、電気料金が大幅に根上がりすると言う人もいれば、まったく、事実に反するとす
る人もいます。
 原発を可動しなければ、いちじるしく日本経済に打撃を与えるという人もいます。それが事実であるならそれも困ります。
 わたし達は、いったい、誰の、何の言を信じればいいのでしょう。
 賛成に誘導するための賛成ありきの言。反対に導くための反対ありきの言。ただ、付和雷同し、不安をかき立てるだけの言。
 受益者と結びつき、何が何でも賛成に導こうとする政治家。政権を担う責任を持たないことを前提とする、威勢ときれい事を並べ立て反
対を唱える野党。
 もう、ためにする議論はやめにしませんか。
 政府にしても、東京電力にしても、正しい情報を開示し、もういちど、信頼の回復に努めるところから始めませんか。正しい情報のもと
で、冷静な議論を始めませんか。それが国難を乗り越えるたったひとつの道でしょう。
 第二次世界大戦から、世界が驚く復興をなしえたように、震災は勿論、原発事故から、国民の英知を結集して、震災後の復興に全力をあ
げませんか。
 そこにこそ、世界に先駆けて、日本が推進する新しい産業が門戸を開放して待っていてくれているように思えてなりません。
 日本には古来より良いことわざがあります。
 (災い転じて福となす)
 災いを転じて福としなければ、たくさんの犠牲者は浮かばれません。浮かばれないばかりか、犬死にになってしまいます。
 今でも地元に戻れず、一家がバラバラのままで避難所生活を続けている人達だって救われません。
 具体論のない情緒的感情論とお叱りを受けそうです。でも、わたしの能力を遙かに超えた事態に、総論しか書くことができません。
 でも、まず、その意識を共有した時、震災復興予算に群がった火事場泥棒のような予算の支出はできなかったはずです。
 
 
 
 経済    
 
 
 昭和の30年代、ほとんどの家が貧乏でした。でも、お隣も、そのお隣も、お向かいさんも、みんなが貧乏で、貧乏であることにさえ気
付きませんでした。
 子供に、小遣いを渡せる家などありません。拾った缶づめの空き缶をクズ屋さんに持ち込んでお金にします。缶の中に石を仕込み、重さ
をごまかす悪知恵もはたらかせます。でも、そんなことは先刻お見通し、知らない振りをしてくれます。
 お腹が空くと、きゅうり畑に忍び込みおやつにします。つまり、畑泥棒です。でも、自分が食べる分の1〜2本、それ以上取ることはあ
りません。山になる実であれ何であれ、平気で口にします。手の届く範囲に柿の実などはありませんでした。おやつのおにぎりは味噌おに
ぎり。それでも、白米のおにぎりを食べられる家は農家か比較的裕福な家庭でした。
 みんなが貧乏ではあっても、人と人のふれあいがあり、助け合いがあり、どこか、のんびりしていました。
 こんなことを書くと、年寄りの牧歌的懐古趣味と笑われてしまうのでしょうね。
 その後、高度経済成長の波に乗った日本は驚異的発展を遂げます。
 ほとんどの人が、自分をして、中流家庭と位置付けます。
 「中流の中の上かな。」
 と、言わしめます。
 それと合わせるように、それぞれが、仕事に追われ、眉間に皺を寄せ、どこか人間性を喪失していきます。
 それでも、大きな会社が物を製造し、問屋に卸します。その問屋から、さらに地域の問屋を経て、小売店に商品が並びます。地域に経済
があり、たとえ大学を卒業しても、ふる里には、戻るべき家業が存在しました。地元に就職できる職があり、その全てが定年まで働くこと
のできる正規の雇用です。集団就職で上京した人が手に技術をつけ、独立して、社長になれる時代でした。
 国のお世話にならなくとも、おばあちゃんが子供相手の駄菓子屋で生計を立てることのできた時代でした。
 地域には、間違いなく交流があり、経済があり、戻る家業があり、お祭りなどの伝統文化を継承し、長男が消防団に加入することがあた
りまえの時代です。あたりまえと言うよりは、消防に入団し、地域の青年団に参加することがステータスでさえありました。
 しかし、それは遠い昔の話。
 地域に経済は存在せず、戻るふる里には家業などありません。地元にある職は非正規雇用やパートだけ。伝統文化を継承すべき資金さえ
集まらず、かろうじて残る消防団にしても、勤めている人ばかりで、昼間の火事には対応すらできません。上京して一旗あげたくとも、学
ぶべき技術などはすでになく、そもそも、就くべく職がありません。大学を卒業して地元に戻ろうとすれば、狙う就職先は役場の職員、入
れたい親と、票とお金がほしい側が結びつき不正が生まれます。それが、当町で起きた町長の収賄事件の真因です。
 
 わたしは町長選で、その、収賄事件については一言も言及しませんでした。
 収賄事件そのものが政治が機能していない結果でしかないと考えたからです。政治を本来あるべき姿に戻すことこそが、収賄事件を生ま
ない源泉になると確信していました。
 あえてエピソードを紹介します。
 わたしなども、役場に就職したい親御さんから、町長に橋渡しを頼まれたことが何度かございます。
 わたしは、イソイソと任期の途中で亡くなった町長の自宅におじゃまします。
 「○○××君が採用試験に応募しているようですが・・・。」
 「○○××君な。確かに受験している。」
 「お父さんから、よろしくお願いしますと言付かってきました。」
 「分かった。」
 これが、町長とわたしとの会話のすべてです。
 選挙で選ばれるわたしにとって、要請を受けて、ただお断りしては角が立ちます。さらに、要請を受諾して、町長の耳に入れないことも
はばかられます。町長はそれを承知で話しを聞いてくださいました。
 結果はどうだったか。すべて不合格でした。当然、菓子折ひとついただいたことも、まして、現金の授受など、ただの一度もありませ
ん。
 ある時、やはり、受験者の親からの要請で町長のお宅に出向きました。
 町長の奥さんが、
 「親戚なんだもの、少しは便宜を計ってやったら。」
 どうやら、親戚の方から役場に入れてほしいと要請があったようです。その時町長は、
 「入れてあげられないことはないよ。でも、今、受験者は、東京の六大学を卒業したような人が受けているんだ。俺が町長でいるうちは
それでもいいだろう。でも、俺がいつまでも町長でいることはできない。そうなった時に、その人達と本当の競争になる。同じ時期に採用
された同期組が課長になり、後から入った人に追い越され、課長にもなれずに定年を迎えた時、それが幸せだったと言えるか。むしろ、自
分の能力に合った場所で活躍することのほうが○○の人生にとってよくはないか。」
 彼は間違いなく不採用でした。
 その後で、
 「ところで、××さんから採用についてお願いされています。」
 そのタイミングで、その話しを持ち出すほうも持ち出すほうですが、聞くほうもまた聞くほうです。続きは前記と同じ道筋を辿ります。 
 また、こんなこともありました。
 わたしの知り合いのお母さんから要請を受けます。
 「お母さん。その話は聞かなかったことにします。」
 「・・・・・。」
 「彼は、ダメ押しをしなくても、必ず採用されます。町長はわたしに言ったことがあります。『個人の資質はいろいろあるだろう。で
も、その資質を過大に評価することで不正を招く。成績が良いというのは、頑張った結果なのだから、俺の採用は成績順でいい。』。ま
して、彼には、少しでも懸念するような資質的な問題だってありませんよね。」
 「それは・・・。」
 「合格しても、彼は、必ずわたしとの関係を指摘する人が出てきます。わたしが本当に手を加えれば、それが彼にとって一生負い目にな
ります。でも、公明正大、正真正銘、何の手心もなければ、人に何と言われようと天に恥じることはありません。お母さんの心配する気持
ちは十分お察しします。でも、彼にどちらの生き方を選択させますか。」
 彼が成績トップで合格したことは書くまでもありません。
 
 話しを戻します。
 皆が中流意識を持てた時代、諸外国からは日本経済をして(護送船団方式)と呼称されました。規制の多さから、世界で、共産主義が初
めて根付き、定着した国と称されます。そういえば、エコノミックアニマルと罵倒され、日本の首相の訪問を、トランジスタラヂオのセー
ルスマン扱いもされました。
 さればとて、競争原理経済に大きく舵を切ります。
 でも、多くの国民が中流意識を持てた、その、時代の、では、何がいけなかったのでしょう。
 権利の主張だけが上手で、自分の正当性を声高かに叫び、自己主張を繰り返し、口角泡を飛ばして角付き合わせる。現在社会のぎすぎす
としてしまった人間関係はどうでしょう。
 近隣諸国の傍若無人な自己主張に違和感を覚え、文化の違いを感じた日本人は絶滅危惧種でしょうか。
 お金至上主義。お金を持つことが正義で、貧乏人は負け犬。お金を得るためには、お年寄りを騙すことにも良心の呵責すら感じない犯罪
者の急増はどうでしょう。
 貧乏人の子供であっても、一所懸命勉強し、東大に合格することが可能でした。でも、受験がテクニック化し、努力だけでは報われるこ
とが少なくなり、塾に行けない子はスタートラインにも立てません。一般大学に入った親の年収より、東大に合格した親の年収を比較した
時、東大に合格した親の年収が平均で200万円も高いことがその間の事情を如実に物語っています。
 スポーツでもしかり、小さいうちからクラブチームに加入し、専門的な指導を受けた子供でなければ、プロとして活躍する道も閉ざされ
つつあります。
 日本国中で、富むものはさらに富み、貧乏人はさらに貧乏に、の、方程式、構図が完成しています。
 それってわたし達の求めた、今、なのでしょうか。
 
 TPP(環太平洋連携協定)参加か、不参加か。
 そもそも、TPPを始めようとした国とは、国の経済規模、輸出入規模などの同じような国、ニュージーランドであるとか、オーストラ
リアであるとか、ベトナムなどの国同士が、それぞれの国の規制や関税を廃止することで、それぞれに発展を促そうとして考えたことで
すよね。
 そこに、アメリカが割って入った。入ることが、アメリカ経済にとってプラスになるという判断からです。畢竟、アメリカにとっての損
得です。
 だから、加盟しなくともよい、というつもりはありません。
 グローバル経済の中で生きなければならない日本にとって、それを承知で加盟しなければならない側面を否定するものでもありません。
 ただ、大事なことは、本当に参加することが、日本の将来にとって、最良の選択であるのかどうかです。利益を得る、一部の人の思惑を
代弁するのではなく、真に国益に合致するのかどうかの判断が求められています。
 また、反対する人も、ただ単に、自身の損得、議員にあっては、自分の選挙区事情からの判断だとすれば、道を誤ります。
 賛成するにしても、反対するにしても、重要なことは、国益に叶うかどうかの一点だけです。
 商業であれ、何であれ、時代の変遷は仕方ありません。国が、国際社会の中で、自由化に向かったことも仕方ありません。それが、国際
社会の中で、日本が生き残る、たったひとつの方法論であったなら、甘んじて享受します。
 でも、日本全国、目抜き通りのシャッター通り化は本当に仕方のなかったことなのでしょうか。
 規制緩和。しなければならない規制緩和も、してはいけなかった規制緩和もあります。してはいけなかった、するにしても、タイムラグ
を設けなければいけなかった政治の過ちに思えて仕方ありません。
 物事を進めることは、メリットもデメリットも必ずあります。賛成する人は、メリットだけを強調し、反対する人はデメリットだけを強
調します。メリットを強調するあまり、デメリットを過小に評価した結果が、現在のシャッター通りの出現なのではないでしょうか。メリ
ット、デメリットを正しく把握し、デメリットについては、こうこうこういう方法で対応します。それで足りなかった場合は、こんな方法
も考えています。
 それが、反対者が存在する意味であり、反対に耳を傾け、対応することが推進者としての努めです。
 反対する側も、ただ、違いを出すための反対を唱え、失敗すれば、(ほらみたことか)と溜飲を下げるのではなく、デメリットの指摘で
恰好だけ整えるのではなく、デメリットを改善する方法論を提示できることも、大人としての野党なのではないでしょうか。
 与党であった自民党を批判した民主党、与党になった民主党を批判する自民党。言っていることも、やっていることも、攻守入れ替わっ
ただけで、まったく同じにしか見えなかったのはわたしだけでしょうか。
 立場、立場で、言っていることも、やっていることも変化してしまうのでは、国民は何を信じればいいのでしょうか。
 TPP。参加するにしても、反対するにしても、それによって、打撃を受けるであろう対象をどう捉え、どう、ソフトランディングさせ
られるのか、そこまでを含め検討を重ねることが政治の仕事です。
 
 
 
 
  農業
 
 
 
 
 20年以上も前になるでしょうか、昼の地元キー局で農協提供のラヂオ放送を聞いていると、毎週水曜日、アナウンサーがいつも同じ注
意を喚起します。
 「木曜日は関東圏で休みのスーパーが多いので、本日の出荷は見合わせてください。」
 その注意が、2年も3年も続きます。わたしは不思議でなりません。毎週、注意を受けているのに、なぜ、改善されないのでしょう。そ
の疑問を友人の営農家に聞きます。
 「関口な。作物が東京のスーパーの定休日を理解するか。」
 言われている意味がすぐには理解できませんでした。つまり、作物は人間界の常識とは関係なく、毎日実ってしまうのです。その時、初
めて農業のことなど何も理解していなかったことに思い至ります。
 少しでも農業を理解したいと考えたわたしは、くだんの農家の田んぼをお借りして、その後10年近く、農家のまねごとをします。その
相談でおじゃました時、農家の実体をさらに思い知らされます。
 ちょうど、収穫期が終わり、晩秋の季節です。彼から、冬期間の季節労働に出る話しは聞いていました。現在では農閑期の仕事などあり
ませんが、そのころは、まだ、冬場暇になる農家のための仕事が存在していました。
 彼の家におじゃまし、田んぼに案内され、その規模の大きさに愕然とします。見渡す限り、彼所有の田んぼです。
 「エー、こんなに大規模な田んぼを耕作していて出稼ぎに行かなければならないの。」
 政府は日本の農業をどうしようとしているのでしょう。
 政府がしてきた政策とは、きつねしか通らないような山間部に、立派な林道を通すなどの農業に名を借りた土建屋行政でしかありませ
ん。農業関連予算にかこつけた支出を繰り返しただけで、長期的ビジョンを見据え、本当に農業に支出した予算てあるのでしょうか。
 当地方でも、土地を集約化し、整備する開拓パイロット事業がありました。田んぼの事業だったものが、いつしか畑に変わり、作る作物
の指導さえできない、机上の空論です。
 畑に水を供給する目的でダムを造り、供給すべき農家が見あたらない体たらく。残ったのは、有名無実のダムと、農家に割り当てられた
受益者負担という借金だけ。
 農家のために生まれたはずの農協は、それこそゆりかごから墓場まで、既存の商店の横にスーパーは建てるは、ガソリンスタンドの営業
を始めるは、向かうところ敵なしの傍若無人振り。職員に割り当てまで設けて、農家そのものに売り込みを掛け、農家から搾取までする始
末。農協という名の得体の知れない、なんでもありの総合商社の誕生です。
 日本の消費に対する作物の供給率、自給率を100%に近づける努力をするのですか。違うのですか。
 まず、その根本を決定することが政治の仕事でしょう。
 日本はすでに、ガソリンに依存している。ガソリンのすべては輸入に頼らざろをえない。ガソリンの供給がストップすれば、たとえ、農
産物を100%自給できたとしても、運ぶ手段が失われてしまう。だとするなら、農産物の生産も耕作面積が大きく機械化が可能で、安価
な外国産に切り替えるべき、そうすれば、農業関連予算も半減できる。そう腹を固めて主張する人があるとするなら、それはそれでひとつ
の見識です。でも、そこまで腹もくくれない。
 農家に求められれば、よって立つ基盤を失いたくないから、TPP反対のポーズを取る。
 外国との協調の中で、作物の輸入を求められれば、けんかもしたくないから、そこそこで手を打つ。
 行き当たりばったりの農政をいつまで続けるのですか。
 わたしは、国體維持の原点は、農業と教育にあると考えています。
 現在の状況は、すべてが、原理原則、理念哲学をおざなりにしてきた結果でしかありません。
 何も、原理原則だけを貫けばいいなどと主張るつもりはありません。でも、原理原則に照らして、柔軟に対応すべきと言っています。
 日本にとっての原理原則とはいったい何ですか。
 原理原則を持たず、理念哲学をないがしろにし、行き当たりばったりの、その場凌ぎの農政を続けた結果が、今日の惨状です。
 
 
 
 外交
 
 
 
 外交なんて知りません。
 ただ、外務省がどうにもならない省庁であることだけは知っています。
 第二次世界大戦の宣戦布告。風雲急を告げる事態に、葬儀に参列し、開戦の通告を遅らせてしまい、今に至るも(だまし討ち)と言わし
める醜態。戦後、当時の大使は、大使としてヨーロッパのどこかの国にまたぞろ就任したのではなかったっけ。
 イラク戦争。ほとんどの外国駐イラク大使は湾岸戦争の開始を把握していたそうです。しかるに、日本大使はどうだったでしょう。のん
きに日本に帰国していたと言います。
 外務大臣はおろか、総理大臣でさえ、テレビ中継で初めて事の重大性を知る始末。日本ってアメリカとは同盟国ではなかったのでしたっ
け。同盟国が仕掛けた戦争すら知らない同盟国って、それって何。
 これまで、日本にとって外務省が、有益な情報を得ていたとか、日本の国益に貢献した事実を残念ですが知りません。
 ドイツから出国したいユダヤ人の求めで、日本への通過ビザを発行し続け、多くのユダヤ人の命を救った杉原千畝という外交官もいるに
はいます。でも、それは、個人の良心からの行動であり、省益には反する行動だったはずです。外務省は、通過ビザの発行も認めてはいま
せんし、発給し続けていることを知ると、別の国への転任命令すら出しています。彼はその後責任を取って外務省を退職しています。
 日本の国益に重大な損失を与えた外交官は、何事もなかったかのようにいつのまにか復権し、賞賛に値する行動を取った外交官は、外務
省を追われています。伏魔殿、外務省の面々と継続する実体です。
 
 情報を収集できること。その情報を、国益に照らして取捨選択できること。現地の情報が正しく外務大臣に伝わること。必要なのはそれ
だけです。
 世界2位、実質1位ではなかったでしょうか。とにかく国連を支える多額の拠出金を分担しながら、常任理事国入りはまだしも、国際連
合憲章、第53条、第77条、第107条の敵国条項すら何の変更もされていない事実。
 それが、外務省の仕事なのかどうかまで、わたしは知りませんが、敵国条項はそのまま、多額の分担金を負担し、あまつさえ、中東戦争
にも、アフガン戦争にも参加するこの国はお目出度い国としか言い様がありません。
 北方領土。竹島。尖閣諸島。実効支配。大統領の上陸。アメリカで、自国の正統性を主張するロビー活動。等々。関係国が、着々と、既
成事実を積み重ねる現況があるにも係わらず、あたらず、さわらず、顔色を伺うことを外交と呼ぶのでしょうか。
 たった二国間の交渉でしかない不平等なアメリカ政府との地位協定。内容の変更などは望むべくもなく、日本国内で起きた犯罪であって
さえアメリカ兵の取り調べも犯罪者の引き渡しさえアメリカの思し召しでしかない現実。
 豪華な大使館に引きこもり、多額の領収書のいらない予算を使って贅の限りを尽くし、情報も取れない輩を集めてパーティーを繰り返
す。残念ですが、我が国には外交など存在しません。
 それにつけても、総理大臣もそうですが、2〜3ヶ月で入れ替わる大臣を擁するこの国では、継続的な系統立てた外交などは、望むべく
もないのかも。
 政治主導とおっしゃるなら、まず、そこからの改革、そこをこそ改善すべきです。
 
 
防衛    
 ある衆議院議員に不躾な質問をしたことがあります。
 「日本の核武装を主張していますが、もし、仮に、先生が総理大臣になれば本当に核武装するのですか。」
 歯切れの良い返答があるものと思っていました。
 「多分、できないと思う。」
 予想外の返答に思わず聞き返します。
 「それでは、言っていることと、やっていることが違ってしまいます。」
 「核武装を叫び、核武装がいつでも可能だという気概を発信するわたしのような人間が国会議員の中にいること、それそのものが抑止力
なんだよ。」
 考えの深さに驚嘆させられます。
 時代にそぐわない核武装を主張し、道化を演じるその先に、そんな深い思いが隠されていようとは、知りませんでした。
 どうせつく嘘なら、選挙区目当てや、場当たり的で、自分のために国民を騙り、ダシに使ったきれい事の美辞麗句を並び立てるのではな
く、真に国益を思った嘘をつけ、と、他の国会議員に投げかけてやりたくなりました。
 これが、わたしの考える防衛です。
 
 
 
   教育
 
 
 
 
 学校の先生が自ら言い出しました。
 「わたし達は聖職者ではない。家に帰れば家族がいる家庭人で、勤め人だ。」
 その時を境に日本の教育は変質しました。
 先生は聖職者であらねばなりません。
 結果として生み出してしまったモンスターペアレント。あなた達が生み出したお化けです。
 権利の主張だけを繰り返し、無理な要求を突き付ける、それらモンスターペアレントに、ご自身が苦しんでおられます。
 国旗であれ、国歌であれ、法制化された日本の象徴で、公的な行事には国旗を掲揚し、国歌を斉唱します。世界中どこの国でもやってい
ることです。
 でも、考え方が違うからと、起立もせず、国旗に背を向けます。現行の平和憲法を守ろうとおっしゃる方が、一方で、自分の都合で、法
制化されている国歌斉唱には参加せず、座ったままでいることは矛盾です。その矛盾にすらお気づきではありません。
 個人がどんな主義主張をお持ちであってもご自由です。
 ただし、それは、個人の主義主張の問題であり、公の場で、公人である先生が、個人行動をとってもいいことにはなりません。その程度
のことが納得できないのであれば先生でいる資格はありません。否。そこにこそ、聖職者ではなく勤め人と言い出した意図が潜んでいま
す。自分個人の主張をしたいがために、つまり、(聖職者)という呼称を葬り去りました。
 先生ご自身が、公私の区別すら理解できず、そんな簡単な問題ですら自己完結できません。結果。ここにこそ、自分の都合でのみ自己主
張を繰り返すモンスターペアレントを生んだ土壌が熟成されています。
 国の教員資格に合格し、都道府県の教員採用試験に合格して公の機関から任用される先生が、法制化されている国歌斉唱を拒否するな
ら、即刻、罷免すべきです。採用時の資格審査を行い、主義主張から、国歌斉唱に参加できない先生を採用すべきではありません。
 それが、個人の主義主張を犯すことになるはずがありません。先生になどならずに、自分の好きなように廃止の運動でも何でもすればい
い。採用さえされてしまえば、首になる心配もなく、生活の保障を得た上でするご都合主義のことば遊びに辟易します。
 学校が病んでいます。
 問題にしなければならないことには目を背け、どうでもいいようなことに目くじらを立てる。
 教員の採用そのものに問題はないでしょうか。
 学校出たてのお坊ちゃん、お嬢ちゃんが、突然、先生になってしまう現行制度に問題はないでしょうか。
 教員採用試験を25歳からとしてその間は一般企業で働いてもらう。働いていた会社の評価も採用の基準とする。もしくは、現行の制度
のままであっても、採用して3年間は自衛隊で訓練に参加してもらう。
 いかがでしょう。
 それが、良かれ悪しかれ、何か採用方法を変えていかなければ、すでにどうにもならない状況を露呈しています。
 子供の教育とは、国の一番の根幹事業です。
 
 わたしが現職の町会議員の頃、町の中学校の入学式に来賓として主席します。議長の祝辞をお預かりして代読しなければならず、緊張し
ていました。
 ふと見ると、わたしが中学生当時の先生がいらっしゃいます。その先生の顔を目の当たりにして、忘れかけていた、当時の記憶が蘇りま
す。
 その先生は、わたしの担任でもなく、授業を受けた記憶もありません。ところが、職員室に何かの用で行くと必ず職員室にいるのです。
 「関口。ちょっと来てみろ。いいか。おまえのようなやつは禄な大人になれない。」
 先生には叱るだけの根拠があったのでしょう。でも、わたしは、なぜ、罵倒されるのか、その意味さえ理解できませんでした。近くの山
まで、素足で走らされたこともあります。
 (たくさんの子供達を見てきた先生がそう言うんだから、俺はよっぽど悪い大人になっていってしまうんだろうな。)
 そう考えるしかありませんでした。大人になることを恐怖さえしました。
 正に、その先生が目の前にいるのです。
 祝辞は、議長の代理として、一応、原稿をお預かりして行きます。ただ、自由裁量で、自分のことばで祝意を述べてもいいことになって
います。わたしは、控えに着席しながら、自分なりの祝辞を考えていました。
 (わたしは、中学生の時、当時の先生に、『おまえのようなものは禄な大人にならない。』と、顔を合わせる度に言われ続けました。相
当な悪ガキだったのでしょう。そんなわたしのような悪ガキでも、(何か人のお役に立ちたい)その一心で頑張ってきました。そして、
今、皆さんの中学校入学にあたって、このような晴れがましい席で、お祝いのことばを述べる機会をいただいています。皆さんにお願いが
あります。わたしは、(人のお役に立ちたい)と言う一点を持てたことが、先生から見ると禄な大人にならないと言わしめたわたしでも、
禄な大人にならなくともすんだ最大の原因ではなかったのかなあと思っています。皆さんもこれからの中学生生活の三年間で、人に誇れる
もの、必死になれるもの、スポーツでも、勉強でも、目標や、希望や、大きな夢でも、ささやかな夢でも、何でも結構です。何かひとつだ
け探してみてください。)
 結果として、この祝辞をお話しさせていただくことはありませんでした。
 それでも、預かっていった原稿を読みながら、(禄な大人にならない)と言った先生に大見栄を切っているつもりにはなっていました。
先生は、すれ違ってさえ、一度もわたしと目を合わせることはありませんでした。
 ただ、今でも、その時に自分なりの祝辞を話せなかったことが、大きな悔いとして残ってはいます。
 
 わたしが小学校5年生の頃です。
 隣町に住む担任の先生の家に、級友何名かで押し掛けます。わたし達にとっては、電車(ディーゼル車)で子供だけで乗車することだけ
でも、結構な冒険です。
 先生の家で、奥さんが作ってくれたカレーライスをご馳走になって帰路についたことを淡い思い出として覚えています。
 登校するのもたくさんの先生とご一緒です。
 「おはようございます。」
 「おはよう。」
 競って大声を出してごあいさつ。
 ところが現在はどうでしょう。子供の列を追いこして、先生は車で通り過ぎます。どこの出身で、どこに住むのか、名前だけしか知らな
い先生と接します。
 ただ単に、昔に戻せ、と主張しているのではありません。でも、どこか、人間としての温くみ、暖かさを忘れてしまっているように感じ
ます。
 先生は職業として教える人。子供は義務として教わる人。そんな明確な区分けが存在してしまったように思えてなりません。
 その、小学校5年生の担任の先生に、授業の一貫として、当時発見された縄文時代の住居跡に連れていかれたことがあります。その住居
跡から、少し離れた場所で、たくさんの穴が穿かれた大石を見つけます。
 「関口。これは大発見かもしれないぞ。何に使われたのかは分からないけど、何かの作業場の跡かも知れない。」
 先生は子供達を集め、その廻りを掘るように指示しました。近辺から、たくさんの欠けた土器片が発見されます。
 とっても懐かしく、高校生になってからも同地を訪れて、周辺を掘り起こしとことがあります。わたしにとっての勲章でした。
 現在ではそこはゴルフ場になってしまっています。
 ただのノスタルジーです。
 でも、そんな経験から、何となく考古学が好きになったわたしは、わたしの長男が小学校3年生の時、縄文から平安時代までの複合土器
が発見される場所に土器探しに連れて行きます。
 火焔土器の口偏の残片などを持ち帰り、一部は現在も保存しています。
 土器を探すのに連れていったのは、それが一回こっきりです。
 成長し、長男が高校を卒業する頃、大学進学を進めましたが就職します。
 さらに、何年か過ぎた頃、長男が家内にぽろっと漏らしたそうです。
 「本当は大学に進学して考古学を勉強したかった。大学を卒業したら社会科の先生になって、ライフワークとして考古学をやりたかっ
た。でも、家が大変なのを知っていて、大学に進学したいとは言えなかった。」
 それを伝え聞いた時、子供達の前では、極力お金の話しはしないように務めていたつもりでも、以心伝心、いらぬ心配をかけていたこと
を思い知ることになります。
 もっとも、高校の授業料さえまともに支払うことができなかったのですから、知らないでいることのほうが不自然であったのかもしれま
せん。
 しかし、その話しを聞いてうれしかったのが、たった一度連れていった土器掘りを覚えていてくれて、なおかつ、興味を持っていてくれ
ていたことでした。
 
 求められる先生像とは何でしょう。
 勉強に興味を持たせてくれ、勉強の面白さを伝えてくれる、その一点に集約されるのではないでしょうか。
 教育とは何でしょう。
 字義の通り教え育むということでしょうか。
 わたしは違っているように感じます。
 教えようとするからいけないのです。
 教えるのではないのです。
 己が、どれだけ、学ぶかではないでしょうか。
 子供から学べない先生に、子供を教育する資格はありません。
 知っているつもりになっている先生に、子供を教育する資格はありません。
 何も知らないことを知っている先生にこそ子供を教育する資質があります。
 
 
 
 
 国民年金
 
 
 
 国民年金とは、そもそも、何ぞや。
 国民年金とは、
(日本の礎として働いた方々が、定年を向かえ、歳を重ね、収入を得ることができなくなった。そんなお年寄りが、生活に困窮するような
国であってはならない。先人に感謝し、うやまい、現役の世代がお金を出し合って、せめて、最低限の生活を保証しましょうよ。)
 それが国民年金の主旨だとわたしは理解しています。
 たとえば、わたしには収入があるからよその人の10倍の国民年金を納めた。でも、年金受給年令になっても、生活するのに十分な収入
があるので、年金を受給できない。そんな人がいてもいいのです。それこそがその方のステータスです。
 年金を積み立て方式に改めるべきとする議論があります。年金を積み立て方式に改変するなら、それは貯金であり、個人の問題です。年
金に国が介在する意味が存在しません。むしろ、民間の企業にお任せすべきです。
 国が介在する年金だからこそ意味があります。
 生活の困窮から積み立てることが不可能だった。受給年令に達しても、収入が見込めない。逆に、そんな人にこそ、手厚い保護をするこ
とこそが、年金制度の主旨に合致します。
 一切り、学校で、給食費未納の問題が浮上します。
 (たとえ、生活が困窮していても、給食費を支払わない人がいるのは不平等だから、わたしも納入しない。)
 人がどうかなのではなく、自分はどうしなければならないかの問題であって、平等の履き違えです。よその人は支払えないのに、自分は
何でもなく納入できることを幸せと感じなければならないのであって、それを、不平や不満に置き換える現在の精神的歪みは深刻です。
 国民年金が破たんするかもしれない。積み立てたお金が受給できないかもしれない。
 国民年金を理解しない、為にする言説です。
 国民年金の受給額が減少することはあるかもしれません。しかし、国民年金が支給できない事態など決してありません。もし、あるとす
るなら、国が消滅する時です。寄るべき国が潰れれば、年金が受給できないこともあきらめるしかありません。
 知ってか、知らずか、(年金が危ない)(年金が支給されない日)等、センセーショナルな見出しと、国民をリードし、牽引しなければ
ならない第三の権力マスコミが、当たり前な根本を度外視して、国民の不安や不満を煽るだけの我が国の目メディアはどこか狂っていま
す。
 もう一度書きます。
 国民年金とは、積み立てるものではなく、お年寄りを大事にする精神の発露から生まれます。
 
 
 
{日本}論争
 
 
 
 我が国は<にっぽん>なのでしょうか。それとも<にほん>なのでしょうか。
 正式にはどちらでもよいのだそうです。だったら、<ひのもと>でもよさげです。
 浅学にして無知で知りませんが、世界の国々で、どちらでもよいとする国名を使用する国はあるのでしょうか。
 それでも何の意味があるのか知りませんが、ポリシーとして、世界にないからこそ、あえて、国名を統一しないとする積極的な理由から
国名を決定しないとするなら、ぎりぎり、理解することもできます。
 でも、論争を決着させることができないから、ただ、座して、先送りしているのだとするなら、政治の怠慢以外の何物でもありません。
 国名すら決定できない政治を信頼することはできません。
 (すべきことをする)それこそが政治の使命です。
 
 
 
 
 最後に                 
 
 「禄な政治家がいない。」
 とは、禄な国民がいないということとイコールです。そして、それは、天に向かって唾を吐く行為です。最後には自分の顔に戻ります。
 政治家が、勝手に政治家になったのではありません。国会議員から、末端の市町村会議員まで、すべて、投票によって選出された代議員
です。選挙の洗礼を受けていない議員など一人もいません。たとえ、それは無競争であってでもです。
 誰が言ったのか、
 「政治家の質は国民の質に概ね比例する。」
 概ね賛成です。
 概ね賛成ですが、わたし達がしなければいけないことは、政治に無関心でいること、逆に、政治を上手に批判する能力を高めることでは
なく、自分と向き合い、自分を磨き、自分を高める努力こそが、国を高め、議員の質を高める一番の近道だと信じています。
 ベルリンの壁の崩壊とともに一党独裁の共産主義は崩壊します。残った共産主義の国であっても、市場経済を取り入れることでしか生き
残る道は見出せませんでした。
 一見、資本主義経済、自由主義経済の勝利に見えます。
 でも、それは、本当でしょうか。
 株式があります。
 株式とは、わたしの理解では、経営能力はあるが資本力のない経営者に、広く浅く、資金を提供してあげようとする制度だったはずで
す。
 しかるに、制度だけが一人歩きし、投機の対称になっているのが実体です。ばかりか、大資本に物を言わせ、乗っ取りまでもが横行し、
それが正当化されます。
 為替。
 経済格差のある国同士の貨幣価値を平均化するための制度のはずです。
 ところが、5円、10円の価格変動が、莫大な利益をもたらす反面、営業努力や経営状態とはまったく関係のないところで、会社の存続
に関わるほどの莫大な損失を発生させます。
 株式や、為替、さらにはインターネットなど、実体経済を伴わない、バーチャルな世界、仮想経済が大手を振ってまかり通っているのが
民主主義経済の現在の病理です。
 競争原理の美名のもと、一人勝ちを許す社会。額に汗して働く人はおろかで、能力のない負け組。押すボタン一個で、何億、何十億とい
うお金が動く世界に住む住人が勝ち組。わたしには、どうしてもこれが当たり前な、理想の社会とは思えないのです。
 実体経済に対してのペーパー経済、実体を伴わないそれを、仮想経済と呼ぼうが、バーチャル経済と呼ぼうが、はたして、それは、経済
と呼べる代物なのでしょうか。
 共産主義が完全な制度ではなかったように、民主主義もまた、完全な制度ではないのです。
 時間差があるだけで、わたしには、共産主義が崩壊したように、民主主義の瓦解が始まっているように思えてなりません。むしろ、積極
的に瓦解すべきだと考えています。
 わたしは、せめて日本だけは実体経済を伴う国であるべきだと考えますし、新しい世界秩序構築のために、範となる国であらねばならな
いとも考えます。自由主義経済以降の模索を率先垂範して開始しなければなりません。
 
 もとより、わたしには世界のことなど分かりません。さらに、日本を語る能力などもありません。
 ある時期、名も無い地方の、名も無い、末端の一議員として、政治の片鱗、断片、さらに、その一部に関わったに過ぎません。
 でも、現在の世界の姿が、日本そのものが、人と人の関わりが、そして、人間そのものが、何か、どこか、おかしいと感じるのは、ひと
り、わたしだけでしょうか。
 わたしは、生まれ育った町が、他に誇れる町であってほしい。そこで生活し、その地に骨を埋めたい。その一心で政治と向き合ってきま
した。それだけです。
 
       ふるさとは遠くにありて思ふもの
       そして悲しくうたふもの
       よしや
       うらぶれて異土の乞食となるとても
       帰るところにあるまじや
 
              借り歌 室生犀星の詩の一節
 
 こだわり続けたふるさとを後にした、わたしの、それが、現在の偽らざる心境でもあります。
 
 経済のプロと称する方が、現在の状況、将来の指針を淀みなく解説します。外交の専門家と称する人が得々と世界情勢を説明してくれま
す。教育について、農業について、あらゆる分野に造詣が深い専門家と称する人が存在します。
 右に行けば左、左に向かえば右、何でも反対をさえ唱えていれば知識人と錯覚しているようにしか見えない御仁も見かけます。結果論評
を繰り返すマスコミも存在します。
 これだけ物言いが自由で、あまたの情報が氾濫し、たくさんの専門家に囲まれ、高度に発展したと思い込まされた日本で、現在に満足
し、将来を希望とともに待望できる人はどのくらいいるのでしょうか。
 経済も外交も、すべての現実は動いています。時間空間地域を無視した指針や方向性は学問でしかありません。都合のよい伝達や誘導を
情報とは呼びません、自分にとっての損得から導きだされる評論は浅知恵でしかありません。現状肯定でしか論拠を示せないものを、同じ
ように、現状否定でしかない詭弁を知識とは呼びません。結果批判だけを垂れ流すマスコミなど必要がありません。
 わたしは、政治そのものを、それら、バイアスのかかった議論と引き離す必要さえ感じています。
 プロが悪いと言っているのではありません。プロがこの国を良くしてはくれていないと言っています。本当のプロを捜し当て、本当のプ
ロを上手に国政に活かす政治家がいないと言っています。半端な知識をひけらかす、どっちつかずが政治家であっては困ると言っていま
す。政治に求められているのは、あやまりのない総枠の指針であり、それを具現化する方法論、つまり、専門職としての官僚を生かし切る
能力を持つことこそが、政治のプロのプロたる所以だと言っています。
 たとえば建物を建築するとします。
 何のために建築するのか。だれのために建築するのか。費用対効果はどうか。それらを踏まえた上で、建築するかどうか、建築する場合
の予算の総枠を決定することが政治です。
 政治の決定を受けて、その意図するところを組み、どういう建物にするのか。鉄骨なのか。木造なのか。ツーバイフォーなのか。また、
どんな機能を持たせ、どのような希望を加味するか。さらには、足らざるを、造詣の深いプロを捜し当て、より、実効たらしめる。それ
が、実務者としての官僚の役割です。
 時と場合によっては、政治が、その道のプロと連動し、実務者としての官僚を動かすことも必要かもしれません。
 言い訳としての委員会や、責任逃れのための専門家の管理など必要ありません。
 いずれにいたしましても、完成した建物についての責任は、発注者である政府にあります。だからこそ、実務面を誰に委ねるかを見極め
ることこそが、政治家に求められる重要な資質です。
 ところが、政治家が知ったかぶりをして耐震設計にまで口を挟もうとする。逆に官僚が、建築するかどうかの決定にまで踏み込もうとす
る。そればかりか、公僕としての責任をないがしろにし、身の保全に汲々とする。それぞれの分をわきまえない線引きの存在しない状況を
露呈してしまっているのが現状ではないのでしょうか。
 つまり、政治家とは、生半可な知識を持つ人を指すのではなく、誰が、どんな能力を持ち、その卓越した能力を見極め、国のために生か
すために委ねることのできる度量を持つ人、もしくは、国民に向かって、進むべき指針を指し示すことのできる人こそが有資格者なのだと
考えます。枝葉末節にこだわり、部分でしか政治を語ることのできない人を必要とはしません。さらに、結果責任を一身に被る覚悟のある
人こそが真の政治家なのだとわたしは思います。
 ある、新人の町会議員立候補者がわたしを訪ねてくれます。
 「町会議員になりたいんです。」
 当選した彼に言いました。
 「希望通り、町会議員になったね。でも、町会議員になることは目標ではないよ。それは、政治と関わる手段だよ。3代前の町長は誰。
5代前の総理大臣は誰。政治を志すあなたでさえ、5代も過ぎれば総理大臣の名前さえ思いだせないんだよ。一般の人であれば尚更だよ
ね。総理大臣であってさえが、総理大臣になったことが名誉でも何でもない。大事なのは、何になったかではなく、何を成し得たか。たと
え、成し得ることはできなかったとしても、どう、立ち向かったか。一番大事なのは、情熱と覚悟。情熱こそが町を変える原動力。覚悟の
ないところに進歩は生まれない。すべてに、情熱と覚悟を持って、石川のために議員活動を行ってください。いいですか。石川のためにで
すよ。」
 彼がわたしのことばをどう聞いてくれたか、わたしには分かりませんし、話すとは離すことであり、口をついて出たことばをどう受け止
めるかは彼の問題です。
 
 ここまでが、政治を志し、政治と関わった、書き残しておきたかったわたしの集大成です。そして、この文章を書き上げたことが、わた
しにとっての、大きな節目、区切りでもあります。
 でも、齢62歳。まだまだ枯れるつもりはありません。
 もし、わたしを必要としてくれる別の新しいステージが用意されているとするなら、能力のすべてを捧げさらなるチャレンジです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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